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「お前をここへ呼んだのは、加々見少佐――お前の父親の遺言があったからだ。自分の死後、この国に残した妻子を引き取り、面倒をみてほしいと。私は少佐の遺言に従い、その役を引き受けることにした。……お前の母親は不幸にも亡くなり、結局、お前一人の世話をすることになったわけだが」
話の意味が、すぐには呑み込めなかった。
(雨京先生が、わたしを引き取った……?)
宗介は死の間際に、菊代と螢の今後の生活を、雨京に託したというのか。
自分の家族の面倒を見てやってほしい、などという頼みは、普通はよほど親しい人間にしかしないはずだ。
それは逆もまた、しかり。
さほど親しくもない人間が残した家族の世話など、雨京が度を超した慈善家でもない限り、いくら頼まれたからとて引き受けようとはしないはず。
ならば、宗介と雨京はそれほどまでに親しかったのか?
――そうとは到底、思えなかった。
雨京とは今日、初めて会ったばかりだけれど、それでも充分にわかる。両者は気性も家格も、あまりに違いすぎる。
だとしたら、なぜ……
けれど、雨京はそれ以上、螢を引き取った経緯について語ろうとはしなかった。
彼は螢が入ってきたのとは違う扉に向かって、患者の名前を呼んだ。
話はこれで終わり、ということなのだろう。
「しばらくしたら、お前の相手を適当に見繕って縁談を組む。それまで、衣食住の面倒は見てやるつもりだ。母親の葬儀も手配してやる。私の邪魔さえしなければ、ここで好きに過ごせばいい」
去れ、と目で促された。
逃げるように診察室を出る。
廊下に誰の姿もないことを見て取った瞬間、がくりとその場に膝から座り込んでしまう。
「…………っ……」
がたがたと、歯の根が合わない。
――お前のような目をした人間が、私は一番嫌いだ。
雨京はきっと、見抜いたのだろう。
螢の愚かしい性格や思考を。積み重ねてきた罪の数々を。
彼から冷たく放たれた言葉が、楔のように胸に突き刺さって離れなかった。
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