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1.すべてを失って
ひぐらしの鳴く季節になると、螢はいつも、母とともに墓参りをする。
今年もまた、喪服をまとって、まだ日の昇らないうちから家を出た。
薄暗い山道には、夏の虫のさざめきが雨のように降り注ぐ。
母と娘の間に、言葉はない。
ただ、その沈黙を埋めるように、カナカナカナ……と、ひぐらしの声だけがむなしく響く。
母、菊代がやっと言葉を発したのは、加々見家の墓前に花を飾り、線香を供えた後だった。
線香の煙のくゆる墓前で、菊代は手を合わせ、慈しみのこもった声で語りかける。
「お父さん。葵。今日も会いに来ましたよ……」
折しも、山の端から朝日が差し、菊代の横顔を白々と照らす。
血の気の薄い母の唇が、ゆっくりとほころんでいく。
それは、螢には決して向けられることのない、優しく穏やかな微笑みだった。
……昔はきっと、どこにでもいるような家族だったのだろう、と螢は思う。
帝都郊外の、こじんまりとした木造の屋敷に住む家族。
軍人の父、宗介。彼を支える母、菊代。
やがて生まれた、二人の娘。
愛された記憶がまったくないわけではなかった。
雷のひどい夜は、母の布団の中にもぐって眠った。
父に肩車をしてもらった時、いつもの風景が、どれほど大きく広がって見えたことか。
誕生日になれば、西洋の文化にならって、帝都の中心街で買った洋菓子で祝ってくれた。
……なのに。
いつ、だったのだろう。
母の眼差しが、姉の葵にしか向けられていないことに気がついたのは。
『葵は、明るくて賢くて、本当に自慢の子ねえ』
『それに比べて、螢ときたら』
螢が小学校から持ち帰ってきた通信箋を眺め、菊代は深いため息をつく。
甲乙丙丁の四段階評価。甲ばかりの葵と違い、螢の成績は芳しくない結果を示す、丙や丁ばかりだった。
ごめんなさい。
ごめんなさい、母さま。
次はもっと、姉さまに負けないように、頑張るから。
もっと、試験でよい成績を取れるように、頑張るから。
だから……
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