2.助けてくれた人

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 とうに日は落ちて、しんと静まり返った診察室に、扉を叩く音が響く。  ゆっくりと控えめに、三回。  扉の叩き方で、誰が来たのかはすぐにわかった。  短く返事をすれば、案の定、開いた扉から聞こえてきたのは信次の声だった。 「失礼いたします、旦那さま。まだこちらの灯りがついていたようでしたので、立ち寄らせて頂きました。もう十一時を回っていますが、お仕事を続けなさるので?」 「あと少しだな。明日は正午まで医学校で講義を受け持っている。午後はすぐに手術をするから、今夜のうちに準備をする必要がある」  患者の診療録から目を離すことなく答えると、信次が苦笑する気配がした。 「本当に、雨京坊ちゃまは五年前から、ちっともお変わりありませんな。医学のこととなると、何もかも忘れて没頭してしまいなさる。……ああ、これは失礼いたしました。もう旦那さまとお呼びしなければいけませんでしたのに」 「別に構わない。当主といっても、まだ日が浅い」  雨京が蓮水院家の当主を継いだのは、二か月前に帰国してまもなくのことだった。  だからまだ、屋敷の者から「旦那さま」と呼ばれる方が、どうにも慣れていないほどだったのだ。  信次は机上の空いた場所に、角砂糖の入ったポットと、香りのよい珈琲(コーヒー)が注がれたカップを置いた。受け皿には、軽くつまめるチョコレートとビスケットがいくつか添えてある。 「旦那さまの仰る〈あと少し〉は、我々の考える一般的な〈あと少し〉とはあまりにも感覚が違いすぎて、信用なりませんからな。どうかご無理はなさいませんよう」 「……わかった。少し休憩する」 「ええ。ぜひとも、そうなさってください」  信次の表情はいつもと同じ、目尻を下げた穏やかなものだったが、その笑顔はどこか圧を感じさせた。  信次は不在がちの両親に代わり、幼い頃から雨京の面倒を見てくれた、言わば第二の父親のような存在だった。だから、こういう表情をした信次に逆らうことはできないと、雨京は経験からよく知っている。  はあ、と深くため息をつき、角砂糖を溶かした珈琲をすすった。  頭が少し、重く感じる。思っていたよりも疲れはたまっていたらしい。  雨京がチョコレートを一欠片、咀嚼(そしゃく)して飲み込んだのを見計らったのか、信次がそこで声をかけてくる。苦々しげな口調だ。
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