1.すべてを失って

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「お代は足りてるね。ほら、じゃ、持っていきな」  受け取った野菜を籠の中に入れる。  同情的な眼差しを向けてくる売り子に頭を下げ、螢はその場を立ち去った。  螢は買いたい品物を指し示す時も、品物をもらう時も、一切声を出さない。  しかも、年中、着物から帯、下駄にいたるまで黒一色の、喪に服した姿で市に現れる。  けれど、帝都郊外にあるこの商店街で、それを(とが)める者はいなかった。  声を失っていること。  母の命令で喪服を強いられていること。  この数年を通して、皆、そうした螢の事情を知っているからだ。  とはいえ、他人様(ひとさま)の家のことにとやかく口を出すべきではないと、同情はしても、誰もが螢を遠巻きにする。  ――たった一人をのぞいては。 「螢ちゃん」  螢を呼び止めたのは、明るく人なつこい声だった。  顔を上げると、手を振りながら近づいてくる洋装の青年の姿があった。  瀧村(たきむら)和正(かずまさ)。  彼とはつい三か月前、知り合ったばかりの間柄だが、それからというもの、往来で会えば必ず声をかけてくれるのだった。  こんにちは、と挨拶する代わりに、ぺこりと頭を下げる。  それから少し首を傾げると、和正はそれだけで意図を汲み取ってくれたらしく、彼はからからと笑いながら答えた。 「今日は久しぶりの休みなんだ。今日は水曜日じゃない? ここに来れば螢ちゃんに会えると思って」  確かに、水曜日の午後は、螢が買い出しに出かける時間だ。  菊代は螢が外出するのを快く思わなかった。  必要のない外出は一切認めないし、買い出しに行く日も、週のうち決まった曜日だけと決められていたのだ。  しばらく、和正の話を聞いて、相づちを打ちながら歩く。  すると、そういえば、と彼はちらりと螢の髪に目を向けた。 「あの簪――」  はっとして、螢は息を呑んだ。  母から浴びせられた罵声が頭をよぎる。  あの桃色の簪は先日、誕生日祝いにと和正から贈られたものだった。  誕生日を祝ってもらったのは、もう何年ぶりだったか。  罪人には分不相応だとは思いつつ、和正の気持ちが嬉しくて、つい受け取ってしまった。  髪に飾ることはしない。  ただ、眺めるだけならば――そう思って。  だが結局、菊代の目をごまかすことは、できなかったのだけれど。 (あんなふうに壊されてしまうのなら……やっぱり、受け取るべきじゃなかった)  菊代に簪が見つかればどうなってしまうかなんて、最初からわかりきっていた。  母は螢の持ち物ですら、厳しく管理せずにはいられないのだから。
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