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教会へ向かう道中。
路面電車の中で、老女はハンナと名乗った。
ふいにあたりが明るくなったので窓を見遣れば、雲の切れ間から日が差すところだった。近頃は積もることはなくとも雪のちらつく日が多かったから、青い空を見たのは久しぶりのような気がする。
「この国までは、とても遠かったわ。私の国は、ここでは和蘭と呼ばれているらしいわね」
少しだけ、螢は驚く。
(それなら、ハンナさんは、シャーリィさんと同じ……)
和蘭。
それはシャーリィの母国である国の名だったから、数ある異国の中でも、螢にとっては一番馴染み深い国だった。
「ここよりももっと寒いところを、何日もかけて列車に揺られてね。それから船に乗ってこの国まで来たのよ。若い頃は楽しかったかもしれないけど、この年になると、疲れてしまうのがつらくて」
《たいへんだったのですね》
「ええ、本当、つらかったわ。でも、ちゃんとここまで来られて安心したの」
他愛のない会話をしばらく続けていると、ハンナはふと何かを思い出したように、楽しげに声を弾ませた。
「そういえばね。最近、毎日教会に来る男の子がいるのよ。すらっと背が高くて、あんまりにも綺麗だったから最初は若い娘さんかと思ったんだけど、よく見たら男の子で、私、本当にびっくりしちゃって」
(……?)
なぜだか強い引っかかりを覚えて、螢はしばらくの間、ノートに万年筆のペン先をつけたまま、動くことができずにいた。
ハンナが続けた言葉に、その引っかかりはますます無視できないものになっていく。
「この国の人はみんなほとんど、黒い髪と目をしてるでしょ? でもその子は全然違うから、もしかしたら私と同郷かもしれないと思ったの。それで話しかけたら、この国で生まれたけれど、お母さまが私と同じ、和蘭出身の方なんだって言われて」
どくん、と心臓が大きく跳ねた。
若い娘と見まごうほどに美しい、男の子。
和蘭の生まれの母を持ち、この国で生まれた――
そんな人を、螢は一人しか知らない。
《名前を知っていますか?》
気が急くあまりに漢字を使って文章を書いてしまえば、ハンナは読めなかったのか、首を傾げた。
慌てて螢は新しい頁を開き、ひらがなで文章を書き直した。
《そのひとの、なまえをしっていますか?》
「その子の名前? ええとね、確か……あら? ……ごめんなさい、忘れてしまったわ。なんて言ってたかしらねえ」
ハンナはしばらくの間、首をひねって考え込んでいたけれど、結局思い出すことはできなかったらしい。
そのうちに、路面電車は降りる予定でいた乗降所へと近づいてしまっていた。
ハンナはばつが悪そうに眉尻を下げ、謝ってきた。
「ごめんなさいね、思い出せなくて」
《いいえ。だいじょうぶです。ありがとうございます》
「もしかして、お嬢さんの知り合いの方だったかもしれなかった?」
悩んだ末に、どうしても気のせいだとは片付けられなくて、螢はおもむろにうなずいた。
するとハンナは優しく笑って言う。
「ルイス……私の息子なら、知っているかもしれないわ。教会に着いたら、訊いてみましょうね」
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