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ハンナが住んでいるという教会は、やはり螢の見慣れた、医学校の近くにある教会で間違いなかった。
教会の庭には、落葉した木に梯子を立て、枝の剪定をしている壮年の男性の姿がある。
ハンナが男性のもとへ近づいていって声をかけると、彼は作業の手を止め、梯子から降りてきた。
「母さん。遅かったじゃないか、どこまで行ってたんだい」
「途中で道に迷ってしまったのよ。でも、この優しくてすてきなお嬢さんが、私を助けてくれたの」
ハンナが振り返り、後ろからついてきた螢を手で示す。お辞儀をして顔を上げると、青年と目が合った。ハンナと同じ、緑色の瞳だ。
男性は屈託なく微笑むと、螢に手を差し出してきた。
「ここまで案内してくださったのですね。母がお世話になりました。僕はルイスと言って、ここで神父をしています」
笑うと目尻が下がるところが、ハンナにそっくりだ。
自己紹介がすんだところで、ハンナが声を上げた。
「それでね、ルイス。私、どうしても思い出せなくて。ほら、ここ最近、教会に来るようになった若い男の子がいたでしょう? その子の名前よ」
「若い男の子? 先週こっちに来たリシャルトのことかい?」
「違うわよ。この国の生まれの、綺麗な男の子のことよ。お母さまが私達と同じ、和蘭の人だって言ってた子」
「え? ああ、それなら――」
そこでなぜか、ルイスの言葉は途切れた。
不思議に思っていると、やがて螢は、ルイスの視線が、ハンナや螢を通り越した先――教会の建物の方へと向けられていることに気づく。
やがてルイスは言った。
「もしかして、あの人のこと?」
(……え?)
振り返った瞬間、螢は瞠目せずにはいられなかった。
日の光を帯びてさらりとなびく金色の髪、身にまとった白衣――
けれど雨京はこちらに気づかぬまま、教会を去っていってしまう。
「そうよ、あの子! 本当に天使みたいに綺麗な子よねえ。初めてここで会った時は私、つい見とれちゃって、不思議そうな顔されちゃったくらいだもの」
「蓮水院雨京さんっていう方だよ。この先にある坂の上の医学校で教鞭を執っているお医者さまさ」
「そう、それだわ。雨京さん。お嬢さん、私がさっき話していたのは、雨京さんのことよ。彼とはお知り合いなの?」
螢はうなずくと、ノートを開いた。
《先生は、身寄りのなかったわたしを引き取ってくださいました。わたしにとって、一生かかっても返し切れない、大きな恩のある方なのです》
雨京のことを記した瞬間、またしても胸の底がつきりと痛む。
最近は、ずっとこうだ。ふとした瞬間に雨京に対する想いが疼く。そのたびに、湧き上がってきた感情を胸の底に封じ込めようとして、どうしようもなく苦しくなる。
するとルイスは、不思議そうに螢とノートとを交互に見遣り、しばらくの間黙り込んでいた。
そういえば、彼にはまだ、声を出せないことを伝えていなかったと思い至った。それはハンナも同じだったらしく、彼女が螢に代わって説明しようとする。
けれど、ルイスは螢が声を失っていることを聞いても驚いた様子はなく、やがて、何か大事なことにでも気づいたかのように大きく深くうなずいた。
「そうか。もしかしたら、あなたが……」
「……?」
ルイスは改めて、螢をまっすぐに見つめてきた。
それから目を細め、微笑みながら言う。
「きっとこれも何かの縁でしょう。――螢さん。せっかく来て頂いたんです。もし時間があれば、ここで少し、休んでいかれませんか?」
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