1.すべてを失って

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 屯所を出ると、外で待っていた和正が螢に気づいて顔を上げた。  おそらくは、どうだったのかと尋ねようとしたのだろう。  彼は口を開きかけたけれど、螢の表情を見て思い直したらしく、すぐに唇を引き結んだ。 「……こんなことって、ないよ」  和正の声は、震えていた。 「まだきみは、お父さんを亡くしたばかりじゃないか。なのに、お母さんまで……。どうして……どうして、きみばかりがこんなつらい目に遭わないといけないんだ……!」  ――つらい。  普通に考えれば、確かにそうなのだろう。  不慮の事故で姉が死んだ。  戦争に出た父が死んだ。  父の死から半年もしないうちに今度は母が死に、変わり果てた亡骸を目の当たりにした。  住む場所も、家族を思い出させるものも、何もかも燃えてなくなって、寄る辺のない螢は天涯孤独の身になった。  ……なのに。 (わたしは……どうかしている)  心が麻痺しているみたいに、何も感じないのだ。  つらい。苦しい。悲しい。  普通の人なら当然、胸の(うち)(さいな)んでやまなくなるはずの感情が、一切湧き上がってこない。  あまりに突然のことだったから、まだ現実味がわかないのかもしれない、とか。  日が経つにつれて、失った家族を思って泣き暮らすようになるのかもしれない、とか。  そういうふうには思えなかった。  涙一つ出ないのは、きっと―― (わたしが、家族を何とも思っていなかった……薄情者だから)  そうとしか、思えない。  嘆き悲しみたいのを螢が我慢していると思ったのかもしれない。  耐えかねたように、和正は螢を抱きすくめた。  背に回された手が震えている。  耳朶(じだ)を掠める彼の吐息も、震えている。  当事者であるはずの螢よりもずっと、彼は螢の境遇を思って、感情を動かしてくれている。 「泣いて……いいんだよ」 「…………」 「きみはもっと悲しんでいいんだ。僕の前では、我慢しなくてもいいから……」  やっぱりそうだ、と思った。  和正は、優しい人。 (わたしとは違って、光の当たる場所が似合うような……まともな人)  ――だから、これ以上、関わってほしくない。  関わればきっと、螢は彼を不幸にしてしまうだろうから。  なのに、そっと身をよじって離れた螢に、和正は必死に言い募る。
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