5.祈り

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 和正が完全に気絶して動かないのを確認すると、雨京は近くに放り出していた、医療器具の入った鞄を拾い上げた。和正の傷の応急処置のためだ。  ……本当は、殺してやりたいほど憎かった。  ようやくこの雑木林の奥までたどり着いてみれば、螢は全身に傷を負って血を(にじ)ませ、彼女が着ている衣はぼろぼろにすり切れていたのだから、なおさらだ。  だが、螢のためにも、まだ和正を死なせるわけにはいかなかった。  雨京はここに来るまでに、ともに車に同乗していたらしい、和正の共犯者と思しき男を同じように気絶させてきていた。  その男の他にも、螢が相続する遺産の存在を知り、和正と共謀(きょうぼう)している者がいる可能性を思えば、何の情報も聞き出せないまま彼を殺すわけにはいかなかったのだ。  鞄を開けば、螢はすぐに近づいてきて、雨京の(かたわ)らに座った。 「補佐をします。わたしに、指示をください」 「…………」  真っ直ぐに雨京を見上げてそう言った螢に、束の間、息をするのすら忘れてしまっていた。  雨京を驚かせたのは、彼女がはっきりと声を出したこと、だけではない。  思わず目を奪われずには、いられない。  螢は、これまでの彼女からは到底信じられないほどに、強く揺るぎない眼差しをしていたのだから。  雨京は何も言わず、うなずいた。  和正の傷を一通り確認すると、螢に指示を出していく。  おそらく、螢は雨京の手元を見て、次にどの医療器具が使われるのか常に予測しながら動いているのだろう。最低限の指示をするだけで、彼女はすでに必要な準備を先回りしてすませてくれていた。  ……すべての処置をすませ、やっと焦燥(しょうそう)から解放された後。  雨京はまともに立ち上がって歩くこともできずに、近くに立っていた木の幹に寄りかかるようにして倒れ伏した。  あまりに強烈な目眩(めまい)に、視界が回る。 「――先生!」  暗転しかけた視界に、ひどく心配そうに雨京を見つめてくる螢の姿が映った。  ……けれど、彼女が不安げな目をしていたのは、ほんの一瞬にすぎなかった。  螢は再び瞳に強い光を宿すと、雨京の鞄の中から包帯を取り出した。彼女は迷いなく手を動かして雨京の傷の止血を行い、応急処置を進めていく。 「……螢」  (かす)れた声で呼べば、彼女はきっぱりとした口調で言った。 「話さないでください。傷に(さわ)ってしまいますから」 「私は、もういい……。お前の、怪我は」  雨京が駆けつけるまでに、螢に何があったのかはわからない。  だが、彼女もまた、無数の傷を負っていたのだ。  雨京の傷の手当をする腕だけでも、青黒く染まった(あざ)や、血の(にじ)んだ痛々しい()り傷がいくつも見受けられた。衣がすり切れているのを見れば、服の下にも傷を負っているに違いないことは傍目(はため)にも明らかだ。  けれど彼女は、首を横に振って、はっきりと言い切る。 「先生に比べたら、大した傷ではありません」  やがて処置を終えると、螢は雨京の手を握ってきた。  血の気が失せて冷え切った雨京の手に、自分の体温を分け与えようとするかのように。 「助けを、呼んできます」 「…………」 「少し時間がかかってしまうかもしれません。それでも、必ず呼んできます。だから、先生」 「……わかった」  螢の手を、握り返す。  彼女の瞳が、はっと見開かれた。 「螢。お前に……任せる。助けを、呼んできてくれ」  螢は大きくうなずいた。  まるで雨京を力づけようとでもするかのように、もう一度強く手を握ると、彼女は弾かれたように雑木林を駆け抜けていく。  あっという間に遠ざかっていく背を、見送りながら。  雨京は一人、笑みを(こぼ)さずにはいられなかった。  ……強くなった、と思った。  目を離せばふっと消えてしまいそうな、あまりにも(はかな)げに見えた少女の面影(おもかげ)など、どこにもない。  いつの間にか、螢はもう、守られるばかりの娘ではなくなっていたのだ。  気づけば西日は薄れ、静かな夜の闇が深まり始めていた。  星々が(またた)く藍色の夜空の下を、穏やかな夜風が吹き渡っていく。  いつになく満ち足りた気分で、雨京はゆっくりと目を閉ざした――。
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