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ホーローさん
ぷーおー。
聞き慣れたラッパ音が響いてきた。途端、都子は水道の下の棚からホーローのボウルを取り出し、いそいそと木戸を開けて出かける。
お豆腐を買いに行くのは都子の役割だった。たばこ屋さんに父親のセブンスターを買いに行くのも、「乙女の祈り」の音楽と共にやってくるゴミ屋さんにバケツを出しに行くのも。
モーレツサラリーマンの父親は、朝早く出かけ夜遅く帰り、土日も接待だゴルフだとあまり家にいない。看護婦の母親も時間が不規則で、都子はいわゆる鍵っ子だ。だから、都子ができることは都子がやる。
「冷ややっこにショウガたっぷりつけて。みそ汁になめこと一緒に入れて。今日はがんもどきに挑戦しようかな」
「都ちゃんにかかると、晩御飯は豆腐のフルコースになっちゃうわね」
豆腐屋さんの屋台への往復の間、うきうきと話しかけること数年。ボウルは都子の独り言に答えるようになっていた。「ホーローさんと呼んでね」と言って。
都子は何となく浮かんだ歌を口ずさみながら列に並んだ。
♪赤い手ぬぐいマフラーにして 二人で行った横町の風呂屋――♪
で、溜息。
「どうしてこういう甘くて酸っぱくて胸に迫るような歌詞にしないかなあ」
「例の優男のラブソング? でもそんな名曲と比べちゃ気の毒じゃないかしら」
ホーローさんもアルマイトくんと似たようなことを言う。でも、ホーローさんは女性らしく、ちょっと視点が違う。
「初めてなんじゃないの、あちらさんもラブソング作るの」
捧げられるこっちも初めて。だとしたら、まともなラブソングとはどういうものか、お互いわかっていないのかも。と、相手を慮るのがホーローさんらしかった。
「でもね。鏡見るたび自分の目を観察してもね。黒目の割合が確かに大きいみたいだけど、どう電気に反射させても緑じゃなくて茶色なのよね」
「黒のことを緑って表現することもあるのよ」
「でも茶色だよ?」
「じゃあ訂正してやったらどうかしら」
「え? ホーローさんもあいつのとこにまた行けっていうの?」
「だってどうせまた近くまで行くでしょ?」
「そしたら今度は三つ編みもじゃもじゃの女子高生、とかあの娘が履いてたのはフレアーじゃなくてプリーツだったなんて、とか新しく歌われたりするかも」
「都ちゃん、気にしてるならそのまんまにしなくていいんじゃないかしら。髪型変えてプリーツ寝押ししてみればいいじゃない」
「でもそんなことしたら氷室にまた何言われるか」
氷室にまた「似合わねえ」「無駄な努力」とか囃されたら。そう思っただけで恥ずかしいし悔しい。
「あのね。氷室って、それしか言葉知らないんじゃないかしら? バカの一つ覚えってやつよ」
ホーローさんはときに痛快である。……でも、言葉知らずは都子も同じ。
「だったら下手くそなりにいろいろ繰り出してくるラブソング男の方が面白いんじゃないかしら」
……一理、ある。
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