敏腕スパイは逃げられなかった。

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「上官どの!」  尋問官たちの背筋がピンと伸びる。  黒い革靴の踵を鳴らし、一分の隙もなく軍服を着こなす女。  ――B国の上級将校の一人、ノアール大佐だ。  冷徹な知将で、目的のためには手段を選ばない。かつてA国は彼女の元に何人も暗殺者やスパイを送ったが、誰一人戻ってこなかった。  その名にふさわしく、闇よりも深い黒をまとう美しい女はケイを一瞥した。 「まだ口を割らないのか」  底冷えするような声音が飛ぶと、尋問官たちが平身低頭した。 「良い。顔を上げろ。……おいおまえ、名前は?」  ケイは答えない。 「参ったな。おまえが口を割ってくれないと非常に困るのだが。A国は近年、強力な生物兵器を秘密裏に開発していると聞く」  ノアール大佐は部下から鞭を受け取り、ケイの顎を軽く持ち上げた。 「A国に、これ以上軍事力を持たせたら大規模な戦争に発展するだろう。私たちはそれを止めねばならない。だから吐け。おまえが知っていることを」  その要求に、ケイは血の混じった唾を吐き捨てて答えた。 「貴様!」  尋問官の一人がケイを殴った。大した痛みではなかった。 (知ったことか)  戦争が起きようと起きまいと、俺は祖国のために動くだけだ。  それが俺の存在意義なのだから。  ケイの瞳に宿る炎はいっさい揺らがない。  ノアール大佐は吐息だけで笑った。 「……まあいい。今日のところは尋問は終わりだ。部下たちも疲れているようだしな」  思いもよらないことを言われ、ケイは初めて動揺した。てっきり今夜は徹夜で痛めつけられると覚悟したのに。  所詮女か――と蔑みかけたが、 「だが生憎、ここにはロープや手錠などの拘束具がない」 (……は?)  本格的に驚いたし、呆気に取られた。拘束具がない? そんな軍部があるのか? 「しかし、逃亡防止の策は取らねばならない」 「……ハッ。手足をぶった切るつもりか?」  ケイはとうとう声に出して嘲笑した。  しかしノアール大佐は、妖艶とも言える笑みを浮かべ、悠然と言い放った。 「舐めるな小僧。四肢切断などしなくても、貴様ごとき動けなくすることなど容易い」  ケイは一瞬だけ怯んだ。  ノアール大佐が指をパチンと鳴らすと、数人の部下が入ってきた。  そして何故か――ケイを手当てした。背中の裂傷に止血処置され、清拭と着替えまで施された。  目隠しをされてケイは別室から連れ出された。四面を屈強な軍人に囲まれ、逃亡は叶わない。  そうして通されたのは、ひどくあたたかい部屋だった。 (何だ、ここは……?)  ケイは視覚以外で周囲を窺った。  室温は二十三度程度。おそらく明るく、静かな場所だ。微かに鼻腔に届くこれは――獣の匂い。 (獣……?)  ケイは地面に正座させられた。柔らかい敷物の感触。両腕を後ろ手に回され、親指だけ紐で拘束された。  混乱しかける思考を落ち着かせようとした時――ふいに膝の上に重みを感じた。  びくりとして立ち上がろうとする前に目隠しを外される。  すると、
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