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さよならはコーヒーの味
「中止になっちゃった」
ほろっと落ちた呟きは、しゃがみ込んでゴミを拾う彼女の耳に入った。
「卒業式も、卒パも、中止だって。卒業式は別にいいんだけど、卒パは出たかったな。振袖も袴もレンタルしてたんだもん」
女子大の敷地の隅、創立者の趣味でつくられたという庭園は、3月を目前にした今日でも、どこか寂しい。曇り空の下で落葉樹が裸の枝を伸ばしている光景は、色彩に欠ける。
女子大生の話を聞いていた彼女は立ち上がり、くりっとした目を女子大生に向ける。
「カナエちゃんは、もう卒業なんだね」
「ヤチオちゃんは来年もいるの?」
「どうかな」
ヤチオ、と呼ばれた彼女は、ベージュのつなぎについた土を払い、腕を伸ばしてストレッチをする。
女子大生が彼女と出会ったのは、入学式から数日後のオリエンテーションの日だった。
たまたま足を運んだ庭園で、彼女が石畳の桜の花びらを箒で掃いていたのだ。
いつも黒髪のボブで、つなぎは季節によって色を変える。春はピンク色、初夏は若草色、真夏は深緑色、秋はえんじ色、冬はベージュ、といった具合に。4年間、同じサイクルだった。
彼女は若そうに見えるが、学生ではなく業者の人なのかもしれない。誰かに彼女のことを話そうとしたが、ついつい直前になって忘れてしまい、結局彼女の素性はわからずじまいだった。
「なんとかウイルスのせいで、イベントはほとんど中止。仕方ないのはわかっているけど、どうもやりきれないな。特に、卒パ」
卒業式の数日後、学科単位で卒業パーティーが行われる。卒業式はスーツでアカデミックガウンが必須だから、卒業パーティーで振袖と袴を着るんだ。
女子大生は、以前からそれを楽しみにしていた。でも、それも中止。きっと他の学生も似たように肩を落としている。
彼女は曇り空を仰ぎ、ゴミ袋を地面に置いた。
「一休みしようか」
彼女はいつも、水筒にコーヒーを入れて持ってきている。
冬場はホットコーヒー、夏はアイスコーヒー。
紙コップに注がれたホットコーヒーで手を温めながら、女子大生はうなだれた。
「ずっと学生でいたいな。歳はとりたくない」
彼女は黙って、話の続きを待つ。
「卒業するの、嫌だ」
コーヒーの湯気が立ちのぼる。
「卒業したら、地元に戻るんだ。電車もバスも通らないような山奥で、一度帰ったらもう都会には来られない。この辺に住んでいる子達は、『ゴールデンウィークくらいに時間をつくって遊ぼうね』なんて言っているけど、私には物理的に不可能。だったら、せめて卒パはしっかり楽しんで気持ちを切り換えようと思ったのに」
冷たい風が吹いた。女子大生は背中を丸めてコーヒーを覗き込む。
「人は秩序から出ようとするのに、秩序の中に戻ろうとする」
不意に彼女が口を開いた。
「他の人が卒業するのに、カナエちゃんは学生でいたい?」
女子大生は、首を横に振った。
「他の人が就職するのに、カナエちゃんは働きたくないの?」
それにも、首を横に振る。
「歳は、とるものだよ」
彼女はコーヒーに口をつけた。
女子大生は、コーヒーにスティックシュガーを入れて一気に飲み干す。苦みと酸味とほのかな甘さが、口の中に広がった。
「……なるようになれ、って、自分に言い聞かせるしかないか」
からになった紙コップを握りつぶし、女子大生は顔を上げた。
雲の切れ間から、薄日が差し込んでいた。
「ヤチオちゃんと会うの、今日が最後かもしれない」
ありがとう。女子大生は頭を下げた。
「卒業しても、また遊びに来るね」
彼女は黙って微笑み、女子大生を見送った。
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