嫁入り

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嫁入り

ふわり、と金木犀の香りが漂い、羽毛布団を一枚被ったような重さが身体に広がった。 「こんばんは、おじいさん」 若い女の声だ。するりするりと老人の着物をはだけさせ、潤いを失った肌を撫でる。 「・・・はて、誰かな?」 老人は、目が見えなかった。戦争の傷跡だ。 「はて、誰でしょう?」 「おめぇ・・・」 特に焦る様子もなく、老人は続ける。 「人間じゃねえな」 「ふぅん、見えないくせにわかるんだ」 「こんな夜更けに爺の寝所に潜り込むたぁ、酔狂なヤツだ」 「さて、私は誰でしょう?」 老人の胸を滑る手の感覚が、ふわふわ、ざらざら、つるつると変わっていく。 「・・・雌か」 「男の番いになるのは女だからね」 「あ?」 「私は誰か、早く当ててよ、おじいさん」 「生憎、儂は目が見えないんでね。君の姿形を教えておくれよ」 「ふふん。いいよ。蜥蜴の頭で、右手は白い虎、左手は大きな犬、足は熊、鶴の羽根に孔雀の尻尾、亀の身体をしているよ」 老人は利き腕を動かし、自分の身体に乗っている物の怪の正体を探る。手に触れたのは、滑らかな肌と柔い弾力、豊かな曲線だった。 「・・・『鵺』か」 「ご名答」 今度は両手で、鵺の顔を触る。 「きつい顔してやがる」 「触ってわかるもんなのかい?」 「まあな。はっ、なかなか美形じゃねえか」 老人の手に触れる頬が僅かに熱を持った。 「この顔が気に入ったのなら、私の顔はこれにするよ。身体の方は、どう?」 「若い女の身体だな」 「滾るでしょ?」 「おめぇ、儂に何の用だ?」 鵺はくつくつと笑った。 「久しぶりに『こっちの世界』の友人に会いに来たら、偶然、あんたを見かけた。好きになるのに道理は要らない。老い先短いあんたの嫁に来たんだ。お嫁さんにしておくれよ」 「・・・おめぇ、人は喰うのか」 「喰うよ、たまに」 「これから先、儂が死んだ先も人を喰わないと約束するなら、いいぜ」 「なんだそりゃ。割に合わないじゃないか。私があと何年生きるのか知ってるの?」 「知ったことか。明日死ぬかもしれんだろ。気に食わねえなら儂を喰らってとっとと帰りな」 ぺちん、と老人は鵺の頬を叩いて、本格的に寝なおした。 「あんたが死んだら、喰ってもいい?」 「いいぞ」 「・・・わかった。今後、あんた以外の人間は喰わない。だから、お嫁さんにしてよ」 「おめぇ、名前は?」 「無いよ、そんなの」 「・・・じゃあ、『桃』だ」 「もも? 果物の?」 「そうだ」 「なんで?」 「邪気を払うモンだろう?」 老人は、にい、と笑った。 「意地悪だね、おじいさん・・・。あんたのお名前は?」 「おめぇ、字は読めるのか?」 「一応」 「表札に書いてあるだろ。読んで来い」 「あれは苗字でしょ。番いは名前で呼び合うんだろ?」 老人は舌打ちをした。 「・・・『静流』だ。静かに流れると書いて静流」 「よろしくね、静流さん」 老人、静流は溜息を吐いた。 「・・・で? 桃よ。人間の男女の番いが何をするのか、知っているのかね?」 「一緒に飯食ったり、下らないこと話したり、夜はまさぐりあったりするんでしょ?」 「ちったぁ知恵があるようだな」 「こうみえて、って見えないか。静流さんより年上なんだよ。流行り物が好きでよく『こっちの世界』に来るし、『こっちの世界』に友人も多いんだ。人間の世界の仕組みは理解してるつもり」 「ほお」 「でも、きっとわからないことの方が多いから、静流さんに導いてほしいな」 「・・・いいだろう。初めに教えてやる。儂のような爺は番いとまさぐりあわん。身体が追い付かんのだよ」 「そうなの?」 「同衾ならしてやるぞ。と、その前に。おめぇ、服は持ってないのか」 「必要ないからね。だって、見えないでしょう?」 「見られてなくても恥じらえ。人間の女は服を着るものだよ」 「まあ、その辺の細かいことは明日なんとかするよ。今夜は同じ布団で夜を明かそうよ」 鵺、桃は布団に潜り込み、静流の利き腕を抱くように眠った。 「おやすみ、静流さん」 静流は厄介なことになったとどこか冷静に考えながら、白く濁った瞳を閉じた。
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