物の怪

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物の怪

桃が川で魚を獲っているときだった。 「よう、逸れ者の鵺」 グレーのパンツスーツを着た女が、黒い皮靴でひょいひょいと川べりを登ってきた。 「精が出るニャア。一匹くんない?」 「馴れ馴れしくすんな」 「あたし達、親友じゃニャいかぁ」 スーツの女はいやらしく笑った。鋭い歯がちらりと光る。頭からぴょこりと黒い耳、尻から二本の黒い尻尾が現れる。猫又だ。 「噂になってるよぉ。傍若無人の体現者であるお前さんが、人間風情に惚れこんでるって。どんないい男かと思って覗きに行ったら、枯れ木みたいな爺でやんの。あんなの食うなら夾竹桃でも齧ってた方が刺激的だニャア」 「噂好きのお前を通して他の連中に忠告させてもらうよ。私の領地に踏み入ったらただじゃ済まさねえってな」 「は! 領地ときたかい! 誰ともつるまず、ひとところに留まらないお前さんが!? 一体、あの爺のどこがいいんだニャ?」 「お前、『あっち』で人間のフリして遊んでるくせに、そういう野暮なこと聞くのか」 「あたしは薄っぺらい上辺だけの関係を引っ掻き回すのが面白いだけだニャ。『こっち』じゃ困ったら力で解決するから面白くもなんともないニャン。人間は弱いから群れないと生きていけない。だから脆い千切れかけの紐みたいな繋がりでも死守しようとする。それをズタボロにして、嘆き苦しむ様子を見るのがたまらなく快感なんだニャア」 「趣味の悪い畜生だな」 「畜生とは言ってくれるじゃニャイか。今、この山の連中と人間共を繋いでやってるのはあたしなんだぜ? あたしが命じれば、山の連中も人間もあの爺を捻り殺すことくらい、」 「やってみろ」 二人の間の空気が極度に緊張し、歪んだ。 「・・・冗談だニャ。悪かったよぅ。そんなに怒らないでおくれ、親友」 「・・・生憎、冗談は言わない性質でね」 「何を言うか! 口を開けば皮肉のくせに!」 猫又はケラケラと笑い転げた。 「ああ! おっかしい! お前も焼きが回ったニャ! 縦横無尽に暴れまわり、物の怪も人間も関係なく喰い荒らしてたお前が! 力で物の怪をひれ伏し、知恵で人間を誑かしていたお前が! まさかの、初恋!?」 「うるさいなあ! そうだよ! 悪いか!」 「あっははははは!! 可愛いところあるニャン!! ひぃー!!」 桃が一番大きい川魚を猫又の顔面に投げつける。 「ギャッ! 鯉!」 「帰れ! ばーか!」 「ああ、笑った笑った。まっ、安心するニャン。手出し無用の不文律よりも、お前の報復を恐れて誰もあの爺に手出しできないニャン。あたしからも連中によーく言って聞かせておくよ。親友のよしみだニャン」 「持つべきものは親友だね」 「ふん。ま、あたしも人間の良さが、少しはわかるけれどね」 「へえ?」 「あたしは元々、家猫だったのさ。『黒猫なんて不吉だ』と忌み嫌われていたけど、若くして旦那を失った若奥様に拾ってもらって、たいそう可愛がってもらったニャン。二十五年も生きたんだぜ? 死んだと思ったら猫又になってたけど、猫の命は九つあるから、あと六つある計算だニャン」 「一つは寿命として、あと二つはどうした?」 「一つは、縄張り争いに負けてやられたニャン。もう一つはお前だよ。忘れたのかい?」 「ああ、お前、『規律を乱すな』とか言って突っかかってきたから、ズタズタに引き裂いたんだった」 「へへっ、あの時はまだ若かったニャン。あの時、孤高を着こなすお前に惚れたんだニャ」 「買い被りすぎじゃない? 鵺なんてそんな強い物の怪じゃあないだろ」 「よく言うぜ。お前の親、どっちが鵺なのかは知らないけど、もう片方は龍じゃねえか」 「親父の話はよせっつってんだろ。気分が悪くなる」 「おお、怖い。これ以上機嫌が悪くなったらガブリだニャ」 猫又はぐいと身体を伸ばした。 「お前もいつまでも遊んでないで、身の振り方を考えたらどうだ?」 「お前には言われたくないニャ!」 「山の長になれって言われてるんだろ?」 「あたしは気楽に遊べないくらいなら死を選ぶニャ。そもそも長なんて器でもないしぃ」 「お互い余計なお世話ってことだな」 「あたし、今は『雛』って名前で麓の町で働いてるんだ。今度お茶に誘うよ」 「・・・私は『桃』。気が向いたら付き合ってやるよ」 「ニャハ! 桃ちゃん! じゃあねーン!」 雛はひょいひょいと川べりを下り、見えなくなった。顔にぶつけられた鯉はしっかりと持って行った。 「・・・チッ。折角の大物を、惜しいことしちまった」 そう言いながらも、桃の顔はどこか照れるように微笑みを描いていた。
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