人間

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「お前、数値が良くなってるぞ」 旧知の仲の医者、柳がそう言った。 「薬の量を減らしてもよさそうだな」 「そりゃいい」 「うん、かなり良くなってる・・・。体重も増えたし、いい調子だ。最近、何か始めたのか?」 「女ができた」 「はぁ!?」 柳が甲高い声をあげる。 「お、お前が? その年で? え?」 「儂も未だに信じられん」 「見合いで結婚した嫁さんを病気で亡くしてからは、一切そういう話なかったじゃねえか」 「別にあいつに義理を通してたわけじゃねえ。お互い親が決めた結婚だったしな」 「そういえば、そうだけどよ。お前、女に興味ないだろ?」 「人並みに性欲はあったし、夫としての務めを果たそうとはしたぜ。女を知らないわけじゃねえ」 「そ、そうか・・・。で、その女に健康管理してもらってるのか?」 「健康管理・・・」 静流は繰り返し、回想する。桃が来てから始めたこと。朝のラジオ体操、魚や山菜をたっぷり使った食事、デートという名の散歩、日が落ちたらさっさと寝る。桃が来てからやめたこと。『臭い』とうるさいので煙草の量を控え、静流は酔うと口数が減るのでつまらないと言って桃は不機嫌になり、不機嫌になった桃はべたべたくっついてきて面倒臭いので、酒も控えている。 「身体に良いことしかしとらん。煙草も酒も控えとる」 「は!? お前が!? 一体全体、どんな女と付き合ってるんだ。教えてくれよ」 「あ? 嫌だよ」 「おいおい! お前が惚れ込んだ女だぞ、聞かずにはいられないじゃあないか。喋るまで帰さないぜ」 「別に惚れ込んどらん」 「いいから、そういうのは!」 静流は深い溜息を吐いた。 「名前は『桃』だ。年は二十歳そこら。それ以外は知らん」 「ええ!? 二十歳!? というか『知らん』て、知らんはないだろ知らんは。お前、金目当ての女に誑かされてるんじゃあないか?」 「金目当ての女にしちゃ面倒見がいいぜ。儂に好かれようと健気なもんだよ」 「ほおー・・・。面倒見ねえ・・・」 「なにが言いたい」 「・・・抱いたか?」 「あ?」 「その桃って女、抱いたのか聞いたんだよ」 「下らねえこと聞いてんじゃねえ。引っ叩くぞ」 「重要なことだろ! いいか、人間てのはな、金のためならなんでもする外道もいるんだよ!」 柳は聡く、情に厚い男であった。医者と患者という枠組みを超えてまで、人間を救おうとする愚かな男であった。それ故、多種多様な人間関係に巻き込まれ、人間の心に希望し、絶望し、柳自身もいつしか偏屈な男になっていった。 「相手はお前を爺だと思って、身体は汚さずに済むと思ってるに違いねえ!」 「落ちつけ。あれはそういう手合いじゃねえよ」 「はん! どうだかね!」 「あのなあ、そもそも、儂の身体が使いモンにならねえんだから、土台無理な話だろ」 「・・・はあ。本当は、医者がこんなことしちゃいけないんだがな」 そう言って、柳は薬棚から一つの瓶を取り出した。 「俺の患者に、俺達より年上の金持ちの爺さんがいてな。愛人を何人も抱えてて、事を致すためにこれに頼ってるんだよ。今のお前の身体なら、薬を使っても大丈夫だろう」 「おい、余計なお世話だぞ。お前は儂を殺す気か?」 「うるせえ! 白湯で飲んで二時間後に効いてくるから、今夜あたり試してみろ!」 柳は薬包紙に薬を包み、静流に押し付ける。 「親友のよしみだ。この薬の代金はまけといてやる」 「要らねえ要らねえ! 冗談はよせ!」 「受け取れクソ野郎! 俺は本気だ!」 「ったく、この馬鹿が!」 ここで折れなければ、柳は顔を合わせるたびにこのやりとりをするだろう。静流は嫌々、薬を受け取った。
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