20人が本棚に入れています
本棚に追加
黒い霧のようなものが渦巻いている穴へと、のっぺらぼうに手を引かれて実可は入っていった。
ゼリーの中へと入って行くような物理的な反発を感じたが、歩けなくなるほどではない。ただとにかく霧のせいで真っ暗で、手を引かれていなかったらもっと強い恐怖を感じただろう。
導かれるままただ進んでいると、ふいに腕を握られている感覚が消えた。
あ、と声を出す間もなく霧が消え、目の前に、ある光景が広がっていた。
実可のマンション。
玄関すぐの壁に向かって立っている自分がいた。目の前には、男物のジャケットが掛けてある。バスルームからは、シャワーの音。
細かく震えている手には、名刺が1枚あった。
『結婚式コーディネーター 五嶋朱美』
そう書かれた明朝体の下には、手書きの文字がある。
『式の予定表、最終チェックをお願いします』
実可と吉池のあいだに、結婚の話が出たことはなかった。
最終チェック、ということは、これまでに何度かの打ち合わせをしたに違いない。そして、あとはゴーサインだけ出せば式が行われるということだ。
−−いったい、誰と。
手の震えが、さらにひどくなった。
「おーい、実可ぁー」
そこで、急に声がした。
吉池の声だった。
「石鹸、新しいのないかぁー?」
実可は急いで、名刺をジャケットの胸ポケットに戻し、逃げるようにそこを離れた。
最初のコメントを投稿しよう!