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過去の実可が、コーヒーのカップを置いた。
そして、大きなため息をついた。
目からはぽろぽろと大粒の涙が零れる。
「どうしました」
マスターが心配したのか、水を取り替えに来たついでのようにして、声をかけてくれていた。
「話、よかったら聞きますよ」
「ホントですか」
実可はハンカチで目元を拭いながら、涙声で答えた。
人の良さそうなマスターは、よかったらカウンターにおいでと言ってくれる。
申し出に感謝しながら従うと、奢りだと新しいコーヒーを淹れてくれた。
客はたいして入っていないとはいえ、破格の待遇だ。
「後輩に、彼氏取られたんです」
「それはまた」
マスターは気の毒そうな顔をする。
「後輩の癖に先輩の男取ってんじゃねーよ」
思い余って悪態をつくが、マスターはそれを咎めるでもなく、頷くでもなく、ただ耳を傾けてくれる。
言っていることが、理不尽な理屈なのはわかる。
恋愛に先輩も後輩もないだろう。
でも別れた直後の女が、それを不満に思って愚痴るくらい、許してもらってもいい筈だ。
早々に皮を被ってしまった当時は、そんなことも考えられなかった。
なにかと取り沙汰されるのが嫌で、大学の友人たちにも、日々の生活を送るときにも、結局平気なふりしかできなかった。
まるで石膏で自分をガチガチに固めた血の通わない像みたいだった。
だから今、涙を流しながら思いを吐き出している自分も、黙ってそれに寄り添ってくれているマスターも、とても人間くさい、体温のある存在に感じられた。
望一の腕には、3枚目の皮。
見知らぬ相手に素直に涙を見せることのできる、無防備な姿を他人に晒すことのできるようになった自分の像が、急速に薄れていく。
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