◆1 実可:そば処 のひら

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実可はすこし迷ったあと、空いていたテーブル席についた。 混むならカウンターにすべきなのかもしれなかったが、その心配はしなくてもよさそうと踏んだからだ。 ほぼ無人の街。新しい客が続々と入ってくるとは考えづらい。 「いらっしゃい」 女性が寄ってきて、冷えた麦茶のグラスを置いた。やはり給仕だったようだ。 「あの」 メニューも見ずに、実可は口を開く。 「蕎麦がきを頂きたいんですけど」 蕎麦がきとは、蕎麦粉を練った餅のような食べ物だ。 実可も存在は知っていたが、実は一度も口にしたことはない。 「蕎麦がき」 給仕が、注文を繰り返した。 「それも、あの、むじなスペシャルを」 教えられた通りに言う。ちなみに、メニューには書いてないと聞いている。 その言葉を言ったとたんに、店内の空気が変わった。 全員が動きを止め、職人が蕎麦を打つ音も、客が蕎麦を啜る音も消えた。 空調の音だけが響く張りつめた雰囲気は、まるで一気に温度が下がったようだ。 給仕は目を細め、持っていたペンの軸で自分の髪の結び目をつついた。 「お客さん、本気ですか」 そう問われ、黙って頷く。 「承知しました」 その言葉を合図にしたように。 蕎麦を食べている途中だった客たちの姿が、一斉に掻き消えた。 実可は驚いて、思わず立ち上がる。 足がテーブルにひっかかり、グラスの麦茶がこぼれそうになって、あわてて手でおさえた。 ずっと背中を向けていた職人が、こちらを向く。 その顔は、のっぺらぼうだった。 「ひゃっ」 悲鳴のような声が、喉の奥から出た。 「大丈夫ですよ、取って食いやしませんて。まあなにしろ、あいつにゃ口がないもんでね」 肩を揺すって給仕は笑った。
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