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脱出
何度か椅子をぶつけるうちに、ドアのノブが断末魔とともに取れてしまった。
バスルームに行き、まずは腰まである髪の毛をばっさり切った。赤毛は、まるで血のように床上に散らばっている。
鏡を見ながら切ったけど、どうにも左右のバランスが悪い。
まあ、いいわ。
髪の毛は、まとめて紙袋に入れた。
床上に所在なげにおちていた紙袋は、葡萄酒が入っていたにちがいない。
それから男爵の部屋に行き、まだ耐えうるズボンとヨレヨレのシャツを選んだ。
自慢じゃないけど、わたしは女性なのに出るところがあまり出ていない。乗馬が大好きで、つねに馬に乗っていたせいか、足やお尻は引き締まりまくっている。
コルセットはしているけど、なくっても胸は目立たない。
念のため、コルセットはそのままにしてシャツを着、ズボンをはいた。
シャツの裾を前でくくって調整し、ズボンもベルトでなんとか調整する。それでも、かなりダボダボではある。
ズボンの裾は、何重にも折らねばならなかった。
なにやら気持ちの悪いものが付着している姿見で、恰好を確認する。
パッと見は男に見える、はずである。
机の上にいくつもの眼鏡が転がっている。
近眼の男爵のものである。
一つくらいなくなっても、彼が気がつくわけがない。
念のため、一つ失敬してそれをシャツの胸ポケットに入れた。
髪の毛の入っている紙袋を忘れてはならない。
髪を切ったことがバレるからである。
それをひっつかむと、男爵の屋敷を出た。
右も左もわからない。
だから、適当に右に向かって駆けだした。
いまは、とりあえずここから遠く離れたい。
駆けだしてから、何か食べ物も持ってくればよかった、と思いいたった。
が、これまで与えられた食べ物は、かたくなったパンと干からびたり腐った果物とカビのはえた干し肉くらいである。
それらは、街の店で安くなったものを買ったに違いない。
そうそう、当然のことながら男爵家にメイドはいない。
だから、人間の住めるような場所ではない。
どうせ食べ物なんてないわよね。
昨夜も今日も一食もなかったんだし。
そう結論付けた。
お腹は減っているけれど、自由になれた高揚感からか足は軽快に動いている。
夜の街を、ひたすら駆けつづけた。
やはり、どこを歩いているのかさっぱりわからない。
石畳が途切れ、家々がなくなってきた。
大きな門をくぐった。とくに門番とか衛兵などもいない。
おそらく、サラボ王国の王都を出たのにちがいない。
幸運なことに、月と星明りで街道っぽい道は明るく照らしだされている。
このまま歩き続ければ、どこに着くのだろう。
というか、このまま夜の道を歩き続けていいのだろうか。
お金は持っていない。文字通り身一つである。
一つだけ、お母様の形見のブレスレットがあるだけである。
それは、お父様とお母様がまだ婚約中に一番最初の贈り物だったらしい。
タルキ国の王家の紋章である二頭の獅子が彫り込まれてはいるけれど、水晶をあしらっているだけのさほど高価でも派手でもない。
盗賊に出くわしたら、『こんな物しかもっていないのか?ならば殺してやる』みたいなことを言って、命をとられるかもしれないわね。
かと言って、どこかで休めるかしら?
そんなことを思いつつ、それでも足を動かし続けた。
王宮の庭すら巡ったことがなかった。
サラボ王国の王太子は、側妃として嫁いだわたしから、いっさいの自由を奪った。
彼は、わたしに興味がなかった。それなのに、自由を奪い注文が多かった。
とはいえ、側妃だったのはわず三か月だけである。
この国に来てすぐ後、ソルダーノ皇国が祖国に侵略を開始しはじめた。
その情報がもたらされたとき、男爵にはした金で下賜されてしまった。
男爵の屋敷でもずっと閉じこめられていたので、結局、わたしはこの国をまったく知らない。
祖国からこの国に来たときには、緊張しすぎていて余裕がなく、馬車の窓外にひろがっていただろう景色をまったく見なかった。
気がついたら、道の両側には牧場っぽい景色がひろがっている。
わたしの祖国は、ほとんどがこんな景色である。
祖国に戻ることが出来るかしら?
お父様やお兄様やお姉様たちは、どうしているかしら?
こちらに来てから、一度も便りを出していない。
というよりかは、出させてくれなかった。
ずいぶんと心配しているだろう。
末っ子だからということで、とくにお父様やお兄様のわたしにたいする干渉は驚くほどだった。ヤキモキさせていたはずだわ。
そのとき、何か声がきこえたような気がした。
盗賊?それとも魔物?
こんな時間にこんな道をほっつき歩いているのは、わたしと盗賊や魔物くらいに違いない。
すると、微風にのって耳に心地よい音がきこえてくる。そのきき慣れた音に混じり、人の声もきこえてくる。
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