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拝啓、文車妖妃さま。
文章最後の「。」を書き込んでペンを置く。
まだ結末には遠いが、キリの良いところだ。固くなった背筋を伸ばそうと思いっきり手を伸ばすと、後ろから手元をのぞき込んでいた彼女にぶつかった。
「おい乱暴にするな、破けたらどうする」
眉間にしわを寄せながら、睨みつけてくる。
まるで紙のような文句を言う彼女は、まさしく紙で、神だ。
ただしくは付喪神と妖怪の間みたいなものらしい。たぶん。あいにく、その方面に関して僕はそんなに詳しくないので本人の言葉とネットでの情報を信じるしかないのだが。
その紙、いや神にたった今書き上げた原稿がひょいと奪われた。
次回作になる予定の原稿を、彼女はばらばらと捲る。嗚呼陳腐陳腐、愉快愉快と褒めたいのか貶した。そう言いながらも端から端まできちんと目を通してくれるのであるからわからない。ふと目が合うと、にやりと怪しい笑みを浮かべられる。
「これらも世に出なければ私のようになってしまうな」
「嫌なこと言わないでくれよ・・・・・・」
「ははは、冗談さ」
そう笑うと彼女は愛おしそうに原稿を撫でる。
「お前には最後まできちんと書き上げる気も、これを世に出すアテはあるんだろう? なら大丈夫だろうよ」
【文車妖妃】は恋文の未練やら怨念やら情念やらだからな、と呟く。
「出世したら言おう、美しくなったら言おう、調子がいい時に言おう、明日、明後日、来年言おう……そうこうしているうちに言えなくなってしまうことも少なくない。短く儚い生の夢を先延しにするのは感心できんな。おかげで代わりに何年も彷徨うハメになる。『我が恋は むなしき空に 満ちぬらし 思ひやれども 行く方もなし』……虚空に満ち溢れた思いがわたしだよ。さっさと手放したほうがいいとわかっていながらも、消えることすらできない」
まっ、最近は身分違いの恋も渡せない手紙も少なくなったからな。風前の灰燼というやつだ。にかりと笑いながら原稿を捲り続けていく。その姿は少し羨ましそうに見えた。
「時代の流れよ、仕方あるまい。わたしだってもう、誰から誰に向けられた言の葉なのか忘れてしまった。恋しくて恋しくて鬼になるほどの恋だったのに」
「君は消えない気がするなぁ」
彼女が肩をすくめると、かさかさと乾いた音がする。
「僕らが、この面倒な脳味噌のせいで人を好いたり、思いを綴りたいと考える限り、手段はどうであれ物を書くって行動はなくならないよ。君にとって望ましいことがどうかはわからないけど、きっと君は消えやしないさ」
文車妖妃の身を包む布は幾枚もの紙が重ねられている。その一枚一枚が誰かへ宛てられた恋文なのだ。
「然しながら、恋文文化は廃れてきておるからな。貰ったらぶれたーで牛乳を沸かして飲むような男なぞ、もう居らんだろう。時代が変われば手段も変わる。手段も変われば我々の姿も変わるだろう。・・・・・・そろそろ身の振り方を考えんといけぬ時かもしれんなぁ。お前のところにいつづけるのもなぁ」
うぬぬと眉間にシワを寄せて唸る。数多の乙女たちはこんな顔で文の前で悩んでいたのだろうかと考えて、それはないなと打ち消した。もっと赤面して可愛い顔をしていただろう。たとえ妄想であったとしても、僕としてはそう願いたいものなのだ。
「次世代の文車妖妃はきっと、電脳妖怪だな」
「おお嫌だ。とぅいったー妖妃やら、らいん妖妃やら、いんすたでぃーえむ妖妃が台頭してきたら潔く引退したいものだ」
本気で嫌そうな顔をした彼女の年寄りめいた口調に思わず吹き出した。
「なら引退前に僕の恋文も預かっていてくれるかい」
けらけらと笑って首を振る。
「お断りさせていただこう。お前の情念はしつこそうだ。ほら、さっさと筆を勧めい。貴様の駄文とはいえ、書ききれなければ後悔や執念は残るのだ。わたしは恋文専門であるからな。貴様の駄文の面倒は見れんぞ。ほらここ誤字!」
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