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部屋に戻ってきた時、与太河原博士は、獅々田と邂逅した時と同じ、退屈に淀んだ目をしていた。そしてテーブルの側で倒れている獅々田の遺体を見ると、
「なんだ、結局そうなったのか」
つまらなそうに呟いて、手慣れたように、血が白衣に付着するのも構わずに、獅々田をおぶさるようにして抱え上げた。
「獅々田君だったかな。君は人格というものが、どこに存在すると思うかね」
返事はない。けれど博士は、全く気にした様子もなく、部屋を出ながら独り言を続ける。
「頭の中、と答える者も多いが、最初に話したように、実際のところ、そもそも人格、などというのは肉体が体験した記憶と、脳内で発生する電気信号の集合体でしかない。無秩序に打たれ続ける点によって生まれる描画、あるいは映写機から放たれる映像と言ったほうがいいかな。フィルムという名の脳と、映写機という肉体そのものが持つ傷、特性、クセ……そういったものが重ね合わさって現れる映像を、我々は人格と呼んでいるのだ。……ふぅ、私の発明は、その映像だけを切り離して、別の肉体へと貼り付けているに過ぎない。わかるかね? 切り離した映像は、それまでだ。大元の映写機がない以上、自然に消えていく。おまけに肉体の方は、常に新しい人格という映像を投影し続けているのだ。どちらが消え、どちらが残るかは自明の理だろう……っと……」
息を切らしながら、キッチンを越えた先の扉を開けると、そこは冷凍保管室だった。遺体を雑に放り投げた先には、他にもいくつかの遺体がある。
「おまけに、新たに投影された元人格は、入れ替わった先の記憶を持っていない。当然だ、その経験は、入れ替わりを行った人格しか体験しておらず、肉体には保存されていないのだから。この発明がなぜ失敗かわかるだろう。入れ替わって何をしたとしても、元に戻った瞬間、その実感も、感動も消え失せるのだ。仮に君が生きていたとしても、元に戻った時には、体験した味のことなど、微塵も記憶には無いだろう」
部屋に戻ると、壁にかけられた掃除機の中から一つを引っ張り出し、血塗れの床にあてがう。掃除機は音もなく、紅い液体を余すことなく吸い上げ、真っ白な床をあっという間に再現した。ジョイントを付け替え、同じように包丁と、白衣に着いた血も吸い上げていく。
「全く、こっちの身にもなって欲しいものだ。入れ替わりを求めてくる連中は、追い詰められている輩ほど、人の話をちゃんと聞かない。予め説明はしているはずなのにな。勝手に私に殺されて、私はといえば、あの締め付けるような頭痛に気を失って、気が付けば身に覚えのない人殺しの後始末だけをやらされる。そのために必要な、証拠隠滅用の掃除機ばかりを開発する羽目になる。勘弁してほしいよ、全く」
ふと机の上に一つ、食べかけのチョコが残っていたのに気付く。気まぐれに拾い上げ、齧ってみるが、大して味は分からない。
煙草の吸い過ぎ、不摂生が祟り、すっかり昔より舌が鈍ってしまっていた。味の濃い菓子類を食べても、僅かな甘味を感じられるかどうか、といったところだ。
つまらなそうに残りをゴミ箱に捨てると、廊下に続く、血の足跡、滴る血痕も掃除機で拭っていく。
そして冷凍庫の前まで戻り、全ての血を拭い終えると、博士はようやく一息ついて、内ポケットから煙草を引っ張り出した。その時、味覚障害を訴えた獅々田の、悲痛な表情を思い浮かべる。
「……味が感じられない苦しみは私にも分かった。切実で、それなりに誠実だと感じたよ。だから私は君の我儘に付き合ってやろうと思ったのだ。だが結果、君は私を殺そうとした。どういう経緯でそうなったのだろうね」
与太河原博士の記憶には、ヘルメットをかぶり、痛みに視界が揺らぐ所までしか残っていない。気が付けば、返り血にまみれた姿で、廊下に倒れていた。
「私に人を見る目が無かったのか、君が期待した結果を得られず逆上したのか……それとも、初体験の味に感動して、それを忘れてしまうことを恐れたのかね」
冷凍庫の向こうにある、物言わぬ死体に向かって語り掛ける。
「もし後者なら、一概に君の終末は不幸とも言い切れない。初体験の喜びとは、それを記憶できるからこそ、素晴らしく、甘美なのだ。私の発明した入れ替わりは、何を体験しても全てが水泡に帰してしまう無意味な代物だった。私自身、入れ替わった先で様々なことを試したようだが、何をしたのかも覚えていない。頭にあるのは、ただ酷い頭痛だけだ。それを君は、待ち望んだ味覚を散々に楽しみ、その記憶を残したまま死ねた。それは君にとっては、あるいは幸せなことかもしれないね。
……尤も全て憶測だし、仮にそうだとしても、大本である肉体の記憶は、結局味というものを体験せずに終わっているがね」
博士は身も蓋もなく呟いてから、煙草を一気に吸い上げると、実に美味そうに、満足げに、煙を吐き出した。
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