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「……その辺りにしておきなさい。私の身体はそんなに丈夫じゃない。それ以上食べると、吐き出してしまうよ」
「わ、わかりました、でも最後に、なにか出来合いではない料理を食べてみたいのです」
「いや、残念ながら、そこまでやるには時間が足りない。君は思ったよりも長く眠っていたからね。あと十分もしないうちに、お互いに元の人格へ戻る筈だ」
「そんな……お願いです、最後にそれだけ食べれば満足します」
「初めからそういう約束だろう? それに時間だけはどうしようもない。人の記憶は、大元が存在する限り、必ずそこへ帰結するようにできているんだよ。残念な話だがね」
獅々田は返事を返さない。初体験の感動と、それを味わえるのが今だけである、という事実の再認識。それらがごちゃごちゃになり、呆然としているようだった。
「さぁ、そろそろ時間だ。また痛みが走るだろう。倒れると危ないから……」
「……なら、その戻るべき大元が無くなればいいんですね?」
「何を……」
博士の口から、言葉の続きは出なかった。おもむろに博士の懐へ飛び込んだ獅子田の手には、羊羹を切った出刃包丁が握られており、それは深々と、博士の人格を宿す獅子田の腹部に突き刺さっていた。
「お菓子を食べている時に感じたんですよ。食欲不振、動くことの億劫さ……博士、あなたの身体、私ほどじゃないですけど、ガタがきているでしょう? けどそれは私のような障害ではない。煙草、運動不足、偏食……五体満足であることに胡座をかいた不摂生が原因だ」
崩れ落ちた獅子田の体に、息を切らせながら馬乗りになると、そのまま心臓へ刃を突き立てる。老体の全体重を乗せた一撃は、あばらを貫き、目的の内臓を串刺しにした。
「許せない、許せませんよ。せっかく、せっかくの身体を、そうやって粗末に扱って。味がわかる舌なのに、煙草の煙が染み付くような使い方をして! あんたみたいに、自分を粗末にする奴には勿体ない。私なら、貴方よりもずっと長く、この身体を使い込んでやれますよ、博士。いいや、それも怪しい。こんな老体の癖にあんなにお菓子を買い込んで……実は貴方、与太河原博士と既に入れ替わった誰か、なんじゃありません? ちゃんと調べてきたんですよ。博士のところに私以外にも来た人の中で、何人か行方知れずになっていますよね。貴方は、その中の誰かじゃないんですか?」
返事はない。獅子田の肉体は既に事切れており、博士の意識を、言葉を、表に出すことはできなくなっていた。
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