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不思議なランチが終わると、私は立ち上がって見晴台の先へと進んだ。
その先は急斜面になるぎりぎりの場所。そこから、下界を見た。
山のふもとにジオラマみたいな家が寄り添って並んでいる。
高い建物など何もなく、どれもがこじんまりと小さい。
ここからだと端から端まで村が見えた。
その中に飛びぬけて目立つ大きな家ある。
あれが優子のお屋敷。
お父さんが驚いたというひいおばあちゃんのお屋敷。桜井家。
村のはずれに大きな川が見えた。
村の真ん中をうねうねと続く道よりも、はるかに大きい。
川は村の端をゆるやかに流れ、大きくカーブしながら山あいを下っていく。
その川を、何かが流れていく。長いものがいくつか連結して、作り物の蛇みたいだ。
「あれは、筏流(いかだなが)しや」
いつのまにか優子が隣に立っていた。
「見たことないやろ」
黙ってうなすく。
「あの筏、うちの山の木やねん。山から切り出して、筏にして、下の町まで運ぶねん」
「筏……」
「ああやって、筏師(いかだし)が操って川の荒れてるところを越えていくの、かっこええで」
目を凝らすと、連結している筏の前と後ろに人が乗っているのが見えた。
ここからは服装も体格もわからないけれど、川の流れにあわせて、長い竿のようなものを動かしているのが見える。
川の流れが急なのか、時折筏が大きくうねった。
「明日の祭りも、川が荒れませんようにって拝む、川の神さんの祭りなんや」
行きのバスから見た、荒々しかった川を思い出す。
「今はだいたい五から六連やけど、あの山の向こうにもう少し大きな土場(どば)があって、そこからは八連くらい筏をつながはる。そこから海までは、そんなに荒れる場所はないから」
「海まで続いてるの?」
「そんなん、どこの川でもそうちゃうの?」
「そっか。そういえば、そだね」
学校で習って、地図で見て、頭ではわかっていでも、街中の暮らしの中では実感として川と海はつながってはいなかった。
優子はうーんと伸びをした。私もつられて伸びをする。
新鮮な空気が体をめぐる。
「さっき屋根裏からおりたところは、山の職人の作業場やねん」
「作業場?」
「木を切ったり、下草刈ったり、木を植えたり。山のことなら何でもしはる。ここの見晴台もあの人らが作ってくれはった。天井裏の抜け道も。みんなおもろい人ばっかり」
優子は、スカートをすそをさっとそろえて、ペタンと地面に座った。
小さなバッタが数匹、慌てて逃げていく。
「うちの山の木は、強いんやて」
「強い?」
「そう。京都の大昔からあるお寺にも使われてるねんて。この山の木が、やで。それって、すごいと思わん?」
視線をあげると、そこには思う存分の山が広がる。
サワサワと風にあわせて葉を揺らし、幾本もの木が存在を示す。
どっしりとした山の匂いが私を包む。
「うん。……すごい、と思う」
私も優子の隣りに座る。
スカートが汚れることなんか、もどうでもよかった。
「そやろ」と優子がくすぐったそうに笑った。
ピーヨロロと空高くトンビが鳴く。
クルクル回って、やがてどこかに飛んで行く。
「ナナミは東京から来たんやろ?」
優子が、大きな目で私の顔をのぞき込んだ。
「うん」
「そやったら、この話知ってる? 外国の童話。豚が三匹でてくる話」
「三匹の子豚? 豚が家建てて、狼に吹き飛ばされる話?」
「そうそう。それそれ」
優子の目はクルクルとよく動いた。
「藁の家も木の家も飛ばされるのに、最後のレンガの家だけが飛ばされへん」
「そうそう、そんな話」
私が調子をあわせて答えると、ふいに、優子が真顔になった。
「それって、ほんま?」
「え?」
じっと見つめられて、ドキッとする。
「外国の木の家って、弱すぎ」
「へ?」
「狼が吹いたら飛ばされるなんて、作り話にしたって、弱すぎや」
「でも、まあ、ほんとに作り話だから……」
それに、木の家じゃなくて木の枝の家じゃなかったっけ……。
優子の勢いに気押されて、言葉を飲み込む。
優子は私の返事なんか気にするそぶりもなく話し続ける。
「だからさあ。外国でうちの木を使って家建てたら、みんなびっくりするんちゃうかって思ってんねん」
熱を帯びた目に、吸い込まれそうになる。
「強いし、長持ちするし、狼なんかに飛ばされるなんて、作り話にすらできひんようになるで」
これが学校の友達なら、「何わけのわからないと言ってんの」なんて笑い飛ばす話題なのに。
優子の清々しさに圧倒されて、お寺みたいな堂々たる木の家に豚が住んでいるところを想像してしまう。
それじゃ、台風が来たって飛んでいくことなんかない。
「いつかきっと、外国でうちの木を使った家を建てる。それがうちの夢やねん。夢っていうか野望やけど」
昭和十年の経済なんて知らない。ましてや外国との貿易なんて。
優子の言っていることが夢物語なのか、実現する可能性があることなのか、それとも、とっくに行われていることなのか。さっぱりわからない。
だけど、そんなことはどうでもよかった。
「桜井家の木で家を建てたら、物語が変わっちゃうね」
私が言うと、「その通り」と笑った。
サワリと風が吹いて、山の匂いが鼻をくすぐる。
山の上にいるというのに、空はどこまでも高い。
「……でもなあ」
優子がポツリと続ける。
「どうやったらいいのか、まだ手探りやねんなあ。お父様は女は勉強なんかせんでもいいって考えの人やから、上の学校で勉強することはかなわへんかった。今はお兄様に本を借りて勉強したり、お兄様の家庭教師の先生にこっそり教えてもらったり。それくらいしかできひんから、歯がゆいわ」
聞きながら考える。
上の学校って大学? それとも高校? まさか中学校?
昔の学校の制度ってどうなってるんだっけ?
「でも、いつか、絶対外国の言葉を話せるようになって、外国に知り合い作って、うちの木を船に乗せて運ぶ」
優子は勢いよく立ちあがった。
「そやから、お嫁になんか行きたくない。絶対行きたくない。もっと勉強して、お父様の仕事を手伝いたいねん」
優子は一気に言うと、メガホンみたいに両手を口元にあてて、
「結婚なんか、せえへんでーっ」
と村、いや、きっと屋敷のどこかにいる父親に向かって叫んだ。
「お父様の思うようにはさせへんでー。うちは、うちのやりたいように生きるからなーっ」
いきるからなあ、という声が、夏の空にこだまする。
村のはずれの川はからわず悠々と流れ、ミニチュアのような村は、ただ静かに佇んでいる。
私は、優子を黙って見ている。
「ところで、ナナミ」
「ん?」
「あんた、ほんまはどこの人なん?」
不意を突かれて、われに返る。
タイムスリップという事実から、思考停止になっていた脳のスイッチが入る。
そうだ。私こそ、こんなところで笑っている場合じゃない。
現代に戻らないと。
でも、一体どうやって?
もう一度、風がサワリと私たちの間を吹きぬけた。
やわらかな木の匂い。涼やかな葉の匂い。おだやかな土の匂い。
二人のスカートが風に揺れる。
優子なら、信じてくれるんじゃないか、助けてくれるんじゃないか。
そう思ったら、言葉が先に出た。
「私は、この時代の人間じゃないって言ったら、信じる?」
今度は、私が優子の顔をのぞいた。
「ここは、昭和十年でしょう。私は令和の世界で生きているの。昭和があって、平成、その後が令和。今から九十年近く先。だから、どこの人ってきかれたら、未来の人って答えると丁度いいのかもしれない」
「へ?」
さっきまでの私みたいに、今後は優子が間のぬけた返事をした。
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