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ひとりぼっちになると、人の声も気配もなくどこか遠くで鳥の声だけがするこの場所が、急に恐ろしくなった。
父や母のもとに戻ろう。
優子が何を言おうと、あの広間に戻ればいいだけのことだ。
平たい石の上に下駄を脱ぎ、取っ手を握ろうとして固まる。
ノブを回す開き戸だったはずなのに、目の前にあるのは木の引き戸だ。
さっきと違う。
自分の心臓の音が、ドクドクと響く。
ガラガラと恐る恐る扉を開ける。
見覚えある廊下と壁があった。
ほっとして進もうとして、足を止める。
廊下には、白黒の幕がかかっていたはずなのに。
ムッとするほどお線香のにおいがただよっていたはずなのに。
お通夜の片鱗も感じられない。
どういうことだろう。
そろりと足を進める。
取り外されていたはずの襖は折り目正しく閉じられており、長く暗い廊下がひたすらまっすぐに伸びている。
しんとして、人の気配などない。
ひいおばあちゃんの祭壇があった部屋をそっとのぞく。
ガランとして何もない。
線香の匂いも飾られた花の匂いもせず、ただ畳の匂いだけが漂う。
みんな、お寺にでも行った?
隣の部屋に続く襖を開ける。
柱に日めくりカレンダーがかかっていた。
「一日」と大きく書かれているその上に、小さく書かれた漢字を見て、目を見開いた。
「九月 昭和十年」
何度も瞬きをしてしまう。
「九月」はわかる。今日は九月一日だ。
合っている。
でも「昭和十年」というはなんだ?
昭和って、平成の前の昭和のこと?
一瞬、タイムスリップという言葉が頭に浮かぶ。
まさか。
あわててあたりを見渡すけど、現在につながるものが見当たらない。
それどころか、豆電球に笠をかぶせただけの電灯が目に入りゾッとする。
「お嬢様っ。優子様」
パンッと威勢のいい音がして襖が開き、着物姿のおじいさんが現れた。
おじいさんは私を見ると、目を細め、眼鏡をずりあげた。
「あんた、見かけん子やな。今日のお客さんか?」
私もマジマジとおじいさんを見た。
深い緑色の着物。丸い眼鏡。
レンズは瓶の底のように太く、真っ黒のフレームはすでにレトロを通り越している。
社会科の教科書の、近代あたりの写真に出てくる眼鏡。
「お嬢様を見かけんかったかね?」
おじいさんは、たたみかけるように問うてくる。
私が何も答えられずにいると、
「ま、お客さんに聞いても知っているわけがないわな」と一人でボソボソ言って、立ち去っていく。
「あ、あの」
やっとのことで出した声は少しかすれた。
おじいさんが足を止める。
「あ、あの、ひいおばあちゃんのお通夜はどうなったんでしょうか……」
「は? おツユ? おツユがどないしましてん?」
おじいさんが振り返り、眼鏡越しにギロリとにらんだ。
「いえ、そうじゃなくて、お通夜……」
私が小声で言いかけると、
「ああ、あんたもしかして……」
おじいさんは、笑ってポンと手をたたいた。
「港町の山晋さんが、手伝いによこしてくれはった女中さんか」
「は?」
「助かりますわ。ほんま、祭りが終わるまでは猫の手も借りたいくらいでしてな」
おじいさんは私の返事なんかおかまいなしに、一人しゃべり続ける。
「いやあ、それにしても、山晋さんが洋服屋を始めはるっちゅう噂は、ほんまでしたんやな。こんな女中の子にまで洋装させて。いやはや。参りました。私は、お嬢さんの洋装でも毎回ドキドキしますのに」
「あ、あの」
「さあさ、こっち来なはれ」
おじいさんは上機嫌でしゃべりながら、廊下を進む。
私は、仕方なくその後を追いかける。
柱に古美術品のような時計がかかっていて、十時をさしていた。
振り子が規則正しく揺れている。
十時。なんだ、まだ午前中なんだ。
思考停止の頭でぼんやりと思う。
ひいおばあちゃん家の台所があった場所には、広い土間があった。
吹き抜けた天井まで壁は真っ黒で、薄暗く湿った空間に井戸やかまどが並び、ほっかむりに着物の女の人が数人、忙しそうに働いていた。
絶望的。タイムスリップ決定。
「ちょっと、この子に仕事させたって」
おじいさんが声をかけると、女の人たちが一斉にこっちを向いた。
若い人からお母さんくらいの年の人までいろいろいた。
その中で一番年上っぽい人が口を開いた。
「どちらさんですの」
白髪交じりの髪をアップにまとめている。
でっぷりと体格がよく、なんとも迫力のある人だった。
「山晋さんとこの女中さんやて。前に、祭りの間、人をよこしたるって言うてはったでな。ほんま義理堅いことで助かります」
おじいさんは、私の話なんか聞かずに勝手に話を進めていく。
「こんな洋服着てて、ちゃんと働けますのん」
「今度、洋服屋始めはるって言うてはったくらいやから、女中さんも洋装なんやて。そやから大丈夫やろ。ほな、頼むで」
おじいさんは、せかせかと私の背中を押した。
年配の女中は、私の頭の先から足の先まで品定めをするようにジロジロと見て、
「ほな、そのお膳を全部広間に運んで、きれいに拭いといて」
と、山のように積まれている大小のお膳を指差した。
ぼんやりと立っているだけの私の手に、いつのまにかてぬぐいが握らされ、もう一度背中を押された私は何も考えられないまま、お膳を運びだした。
何かしていないとおかしくなりそうだった。
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