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4
黙々とお膳を運び、黙々と拭いているうちに少しずつ頭が整理されてくる。
とにかく、ここは昭和十年、今からかなり昔のひいおばあちゃんの家で、優子という私と同じくらいのお嬢様がいて、今日お見合いをするってことは確かみたいだ。
さらに、私は優子に「お見合い相手の妹」に間違えられ、おじいさんには手伝いの女中に間違えられている。
それと、今はまだ午前中だってこと。
わかっているのは、それくらい。
この先、私はどうしたらいいんだろう。
どうやったら、元の世界に帰れるんだろう。
夢ならもういいかげんに覚めてほしいとため息をついたとき、後ろから声をかけられた。
「あの……、お手伝いします」
振り返ると、同じくらいか少し年下の女の子が立っていた。
おかっぱに切りそろえた髪。どこか懐かしい感じがする少したれ気味の太い眉。
力なく見えるのはほっそりとした顔立ちからか、それとも青白い頬の色の印象か。
この子は着物ではなく、優子が着ていたような、レトロな雰囲気のピンクのワンピースを着ていた。
妙に膨らんだフレアスカートも、大きめの丸襟も、私から見たらかなりイケテない感じだったけど、よく似合ってはいた。
「あ、ありがとう」
女の子は隣りにすっと座ると、だまってお膳を拭きはじめた。
開いた窓から時折すうっと涼やかな風が入ってくる。
何も話すことはなく、ただ窓の外の鳥の声を聞きながら二人でお膳を拭いていく。
金箔があしらわれた高そうなお膳。
「私、キヨって言います」
「え?」
顔をあげると、キヨがおずおずと笑った。
「あなたは? 新入りの女中さん?」
「そうでもないんだけど……」
「お名前は?」
「ナナミ」
「私もこのお屋敷にきて、まだ半年なの。ナナミさん、どうか私とも仲良くしてね」
「……はあ、まあ、できるなら」
私があいまい答えると、キヨはパッと嬉しそうに笑った。
「いけません、キヨ様っ」
声と同時に、さっきの女中がすごい勢いでキヨのてぬぐいとお膳を取り上げた。
「ミツ……さん」
キヨが、おびえた目でミツを見上げる。
「どうぞ、ミツ、とお呼び捨てください」
ミツはそう言って、取り上げたてぬぐいで取り上げたお膳を手早く拭くと、畳の上に置いた。
「女中仕事なんかさせたら、あなた様がよくても私が旦那様に叱られます」
それから私をギロリとにらむ。
「この人はこの家のお嬢様や。お膳拭きなんか手伝わせたらあかん。山晋さんとことちごて、ここは桜井家やさかいな。洋服着てるんは、お嬢さまか奥様だけや」
そう言って、キヨのてぬぐいを乱暴に私に押しつけ、大きな体を揺らしながら行ってしまった。
あっけにとられている私の横で、キヨはうつむいて小さくなっていた。
「……ごめんなさい」
泣きそうな声であやまられても、私は今それどころではないのだ。
目の前のキヨさんやミツさんが、何を言ってこようが知ったこっちゃないというのが、正直なところだった。
だけど……。
「嫌な思いを……させてしまい……」
うつむいて小さくなっているキヨを、無視することはできそうになかった。
「あ、うん。大丈夫だから。気にしないで」
「でも……」
キヨは、すがるように顔をあげた。
たれ気味の太い眉が、悲壮感を増幅させているように見える。
「えっと、あなたも、この家のお嬢様なの?」
私が聞くとキヨは目をそらし、それから小さくうなずいた。
「……ですが、いろいろあって……」
そこまで言うとだまりこみ、大きく一度息を吸うと、まっすぐに私を見た。
「きっと、すぐに私のことあれこれ聞くと思うので、自分から言っておきます」
「はあ……」
顔はキヨの方に向けたまま、横に並んだままのお膳に手を伸ばす。
ミツに「拭いておくように」と言われたお膳は、まだズラリとならんだままだ。
「私は、この家で生まれ育ったわけではないのです」
「そうなんだ」
適当に相槌を打ちながら、手を動かしていく。
「さっきも言ったみたいに半年前に初めて来たんです。それまでは、母と二人でF県の海辺の町に暮らしていました」
母と二人で? どういうこと? 別居?
と思っていたら、キヨが続けた。
「お兄様の優一郎様や優子様とは、腹違いの兄妹になるのです」
それって、父親が浮気をしたってこと? それとも、お妾さんってヤツ?
ここは昭和十年。こういうこがよくある話なのか、そうでもないことなのか、全然わからない。
だまっていると、キヨが口を開く。
「昔、私の母は、大きな商家の娘だったのだそうです。この川を下った先の宿場町で、大きな商いをしていたと聞いています」
どんな相槌を打ったらいいのかわからず、私はひたすらお膳を拭き続ける。
「そこで、お父様に見初められ、この桜井家に嫁ぐことが決まっていたのだそうです。なのにお商売に失敗し、母の家は没落。婚約もなかったことになりました」
長い間片付けられたままだったのか、金箔のお膳にはうっすら埃がつもっている。てぬぐいですみずみまで丁寧に拭いていく。
「その後、お父様は今の奥様と結婚されました。私の母は親戚を頼ってF県へ移り、漁の手伝いをしたり、浜仕事の手伝いをしたりして暮らしていました」
一膳一膳、拭きあげられたお膳が積まれていく。
「……ある日、近くの町で、偶然母とお父様は再会しました。そして生まれたのが私です」
そこまで言葉にした後、キヨは大きく息を吐いた。
吐くことで重い何かをも体から追い出そうとしているみたいに。
部屋はしんと静まり返った。
私は、手を止めない。
「半年前に母が死に、お父様は私に屋敷で一緒に暮らすよう、言ってくださったのです。でも……」
キヨは言葉を切った。
その先を言葉にすることを恐れているかのように、何度も言いかけてはやめるを繰り返し、やがて、絞り出すように声を出した。
「私は、ここに来るべきではなかった……」
キヨが来てすぐ、兄の優一郎が病に倒れたこと、女中頭が大けがをしたこと、雇っていた職人が仕事場の事故で死んだこと。
そうでなくてもキヨのことを歓迎していなかった義母が、それ以降キヨを「疫病神」と呼び、忌み嫌い始めたこと。
それは、義母だけでなく女中や職人たち、はては村の人たちにもひろがり、「死んだ母の呪い」だという噂までたっていること。
「……母は、そんな人ではありません。お父様のことを心の底から大切に思っていましたし、だからこそ、遠くからではありますが、お父様のご家族である奥様や優一郎様、優子様のことも大切に思っていました。恨むなんて、呪うなんて、とんでもないことです」
いつのまにかお膳はすべて拭きあがり、私は最後の一膳を何度も何度も拭いていた。
ドラマで見るようなお屋敷で、ドラマで見るような確執。
ほんとにあるんだなあ。
切実なキヨの話を、私は他人事に聞いていることを自覚していた。
「だから……」
キヨが言いかけたとき、廊下からミツの声がした。
「ちょっと、あんた。そっちが終わったら、これを運んどくれ」
「はいっ」
反射的に返事をしてしまう。
口をつぐんだキヨが、「どうぞ行って」と目で合図をくれる。
こんな形で話を途中でやめていいのかという気持ちと、長い話から解放される安堵と、そのどちらもを感じながら、私はゆっくり立ち上がった。
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