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ミツは、私におにぎりとお茶をのせたお盆を渡した。 二つの大きなおにぎりは、ていねいに竹の皮にのせられている。 「離れの一番奥の部屋やから」 「離れ?」 そんなものあったっけ? 「母屋の奥の館や。廊下のつきあたりを右」  廊下のつきあたりは、右に曲がればお風呂のはずだけど……。 「そこが、優子お嬢様のお部屋やから。お嬢様がおられなくても、そこにおいておくように。部屋にはお嬢様の今日の着物がおいてあるから、汚さへんようにするんやで」 言われるままにお盆を受け取り、廊下を進む。 「離れに行くのですか?」 キヨが部屋から顔を出す。 「一緒に行っていいですか?」 「いいけど」 私が言うと、キヨは案内するかのように前を歩き出した。 廊下のつきあたりを、迷うことなく右に曲がる。 記憶ではお風呂があると思っていた場所に、まだ奥へ続く廊下があった。 私が知っているひいおばあちゃんの家と昭和十年のこの家とでは、ところどころ造りが違う。 タイムスリップに、パラレルワールド? まじで勘弁してほしい。 おにぎりを運びながら、ため息が出た。 「こっちです」 キヨが廊下は左に折れ、その先に、また長い廊下が続いていた。 左側は全面木枠のガラス窓になっていて日当たりが良く、ずっと奥まで見通すことができた。 くっきりとした青空が広がり、開け放した窓からここちよい風が吹き込んでくる。 反対側には、ぴっちりと閉められた障子が、ずらりと並んでいた。 いったいいくつ部屋があるんだろう。 「離れは、お客様が使われることが多いんです。でも、一番奥の部屋は優子様が使われていて。母屋にも部屋をお持ちですが、こちらにおいでの方が多いくらいで……」 部屋の前まできたのでキヨはそこで言葉を切り、「失礼します」と声をかけた。 返事はなく、人の気配もしない。 しばらく待ってから、そっと障子を開けた。 目に飛び込んできたのは、中央に掛けられた着物だった。 白地に青紫の花が咲き乱れている。 夏の終わりにふさわしく、涼しげな貴婦人のような着物。 「わあ。着物なんて初めて見る」 吸い寄せられるように、部屋に足を踏み入れた。 すべすべの生地に、濃密で豪奢な刺繍。 花は一つずつ色合いを変え、すっと伸びた葉がちりばめられている。 こんなの着るなんて、ほんとに「お嬢様」って感じだよね。 そう思いながら、おにぎりを置く場所をさがす。 部屋には文机と鏡台があった。 「あ、あの、ナナミさん」 「はい?」 キヨは、真剣な顔で私を見ていた。 「あの、さっきのお話の続きですけど……」  ……さっきの話ってなんだっけ?  「あの、その、私のことでいろいろ噂はありますが、嘘ですから。だから、私とも仲良くしてほしいんです」 ああ、さっきの「だから……」の先かがあったのか。 「お願いします」 そう言いながら、キヨはうつむいて私の返事を待っている。 針のムシロみたいな日々。毎日、辛いんだろうな。 私は「いいよ、わかった」以外の返事が思いうかばず、そのまま声に出した。 キヨは、嬉しそうに顔をあげた。 私はキヨから目をそらして、お盆を文机の上に置く。 文机の上には、薄い木箱が一つ置いてあった。 上等な素麺が入っていそうなその木箱を見て、はっとする。 「この箱……」 私、知ってる。見たことがある。 上品な風呂敷に包まれて、押し入れの奥にしまわれていたひいおばあちゃんの宝物。 あの日、ていねいに風呂敷をほどき、愛おしい物を抱きしめるかのように、やさしくふたを開けてくれたあの箱。 でも、あの時見た箱は、こんなにきれいじゃなかった。もっと古くて、焦げたような煤けた跡があったはず。 「それ、かんざしや」 後ろから、優子の声がした。 私もキヨも「ひっ」と息をのんだ。 優子は「驚かしてごめん」と言いながら、奥の押入れの中からさっそうと出てきた。 「それ、お母様がこの家に嫁いで来られた時に、おばあ様からいただいたものやねんて」 驚いて動けない私をキヨを横目に、優子はおにぎりのお盆を足元に置き、木箱を開けた。 中には、色とりどりのかんざしが入っていた。 箱の中は仕切られていて、その中に一本一本違うかんざしが入っている。 三個×四段で十二本。かんざしは、どれもがきれいな花をつけていた。 薄いピンク、白、黄色、紫……。 ちりめんの布で作られた清楚な花たち。 「きれい……」 思わず声がでた。 小さい花がたくさんちりばめられた物、大振りの花が華やかに咲いている物、しだれ桜みたいに流れるように花弁がついている物。 六歳の私も、こんな風にうっとりと見とれたにちがいない。 そういえば、あのとき私はどのかんざしがほしかったんだろう。 強烈にほしくなって、迷わずまっすぐ手を伸ばした。 あれは……。 「それな、上から一月が梅、二月が椿って月ごとの花かんざしになってんねんて。だから全部で十二本」 優子はゆっくりと箱を閉めた。 「ところで、ナナミ。なんであんたここにいんの? あんた、東京のお客さんと違うの?」 「う~ん、お客さんだったんだけど……」 この状況をどう説明していいのかわからず、頭をかく。 「ほんなら、女中やったん?」 「それも違うんだけど……。でも今は、自分じゃどうしようもなくて」 「なんや、おもろい子やな」 優子は、私の答えになっていない返事を気にする様子もなく、さっと竹の皮におにぎりを包んだ。 「ほんなら、うちと行く? この押入れ、隠れ抜け道になってんねん」 「抜け道?」 「そ。隠れるって言うたやろ。今夜の宴が終わるまで、本格的に逃げよと思って」 いたずらっぽく笑いながらも、目は真剣だった。 ぐりんと大きく黒い瞳が、まっすぐに私を射抜く。 「行く」 考えるより先に言葉が口から出た。即座に答えた自分に驚く。 でも、このまま女中仕事を続けたって、何かが変わるとは思えなかった。 「キヨ、あんたは?」 優子は押入れに足をかけながら、キヨにも声をかけた。 キヨは、まだかんざしの箱を見つめていた。 声をかけられても気がつかないほどにじっと。 「キヨ」 もう一度声をかけられて、キヨが驚いてこっちを見た。 「あんたも一緒に行く?」 「えっ?」 キヨは、なんだかうろたえているように見えた。 自分を「忌み嫌っている」はずの人から声をかけられて、どうしていいのかわからないのだろうか。 キョロキョロと視線を泳がせたあと、私に助けを求めるような顔をした。 「私は行くよ。キヨさんは、どうする?」 「私、私は……」 キヨの視線は、優子と私、それからかんざし箱の間で激しく動いた。 「ナナミ、行こう。もうほっとき」 優子は押入れの天井をおしあげ、私をのぼらせた。 それから、もう一度キヨを見て、ゆっくり押入れの扉を閉めた。 その瞬間、天井裏に闇が広がった。 かびと埃の臭いが鼻につく。 ガサガサと音がして、優子が隣に来た気配がした。 「せっかく声かけたのにな」 「え?」 「あの子は、いっつもオドオドして。自分から何かしようっていう気持ちがない」 ポッと明るくなった。 優子の手に火のついた棒があった。 私がマジマジ見ていると、「ただのマッチやん。あんた知らんの?」と笑った。 炎をそっとろうそくに移す。 よく使う抜け道なので、たくさん常備してあると言う。 「キヨとなんかしゃべったん?」 燭台持ち上げながら、優子が私をチラリと見た。 腹違い姉妹の当事者に言える話でもないので、 「……まあ、いろいろ」 と私が言うと、 「ま、だいたい想像つくけど」 と、優子が肩すぼめた。 「キヨのこと、お母様はえらい嫌ってはるけど、うちは別にそうでもないんや」 ふうと息を吐いて、優子はゆっくり進みだした。 腰をかがめないと頭が天井にあたる。 「お兄様の病気かって、お富さんのけがかって、大吉さんが亡くなったのかって、そんなんただの偶然や。あの子のせいなわけがない」 ゆらゆら揺れるろうそくの灯の中、「こっちや」と進む優子の後を追う。 「可哀そうに。お父様もお父様や。わざわざ引き取らんでも、故郷でひっそり暮らせるようお金でもなんでも送ったったらええのに」 音をたてないように、頭をうたないように、私たちは天井裏を進んで行く。 大きな梁がいくつも交差し、下をくぐったり上をまたいだり、忙しい。 「だいたいお父様は自分勝手なんや。みんな反対したのにキヨを連れてきて、お母様との関係が悪くなるとほったらかし。うちも嫁になんか行かへんって、あんなに言うてんのに、しょうもない見合いなんか計画するし」 ま、今更言うてもどうにもならへんけどな、と優子は笑って立ち止まった。 そっと足元の板を外す。とがった光が差し込み、思わず目を細める。 出口だ。 先に優子がスルリと下に降りた。私もこわごわ後に続く。 そこには、大勢の男の人がいた。 半纏のような服を着ている人、ふんどし(!)一丁の人、年寄りから若い人までが、お茶を飲んでいた。 何かの作業場のようだった。真新しい木の匂いがする。 「お、今日は友達も一緒か」 「外は暑いで。お茶飲んでいき」 天井裏からいきなりあらわれた優子に驚きもせず、男たちはのんびりしたものだ。 「ごめん。休憩中やったね。じいやが来ても、うちのこと言わんといてな」 優子が言うと「またかいな」「逃亡の片棒担ぐのは、かなんなあ」「旦那様に顔向けでけんがな」など口々に返事が返ってくるが、だれもが笑っていた。どうやらよくあることのようだった。 私は差し出された藁の草履をはいて、優子と一緒に歩き出した。 いつのまにか優子は布袋を背負っている。逃亡グッズなんだろうか。 太陽が真上から私たちを照らす。 まだセミの声が幅をきかせ、行く山道の下草は青々と夏の気配を残していた。
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