2 地獄の蝶

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2 地獄の蝶

その日伊吹は、何時も通りに下校した。 何時もと変わりない、平凡な1日だった。 朝は遅刻ギリギリで間に合ったし、返却されて来たテストの点数も、平均点より少しだけ上という程度だった。 花臣は何時も通りのイケメンで、古典の先生にあてられたページもよどみ無くすらすら読み上げていた。 花臣の声にはセラピー効果があると、伊吹は常々感じている。実際、気持ち良く睡魔に襲われていたのは自分だけでは無かったのを、後ろの席の伊吹には見えていた。 それから昼も友人と3人で弁当を囲んで、今朝は母が寝坊してコンビニのパンだけだった伊吹はおかずを少しずつ恵まれた。 午後の授業もウトウトしながら何とか寝ずに済み、帰宅部の伊吹は 花臣が所属しているサッカー部の練習をしているグラウンドの傍を、ゆっくり通って帰る。 幸せだ。 恋というより推しに近いのかな、と思わなくもないけれど、花臣の事を考えると胸がキュッとするから、やっぱり恋なんだろうと思う。 そんな事を考えながら、伊吹はジャージと体操着の入ったナップサックを揺らして歩いていた。 そうしたらその先が、少しだけ…ほんの少しだけ、前から来た人の足に当たったのが見えて、俯き加減に歩いていた伊吹は謝ろうと顔を上げた。 他校の制服を着崩した、金や銀や青い髪をした不良達が数人、虫けらでも見るように伊吹を見下ろしていた。 謝罪を口にして逃げようと思ったのに、伊吹の心身は瞬時に萎縮して、その場に固まった。 不良達は、おそらく退屈していただけだった。 伊吹はサンドバッグにされる為か、カツアゲでもされる為か、近くの彼らの溜まり場のような廃工場に引きずっていかれた。 そこに蝶野という男がいたのは、伊吹を連れて行った不良達には意外だったようだ。 どうやら日頃は、余程の事がなければ夜遅くにしか姿を現さない人物らしい。 蝶野は首根っこを掴まれて引っ張って来られた伊吹の顔を見て、それから頭のてっぺんから胸、腰、足の爪先迄をじろじろと見た。 それから、伊吹の首根っこを掴んでいる金色の頭の不良を殴り倒し、伊吹を小脇に抱えて奥の扉の中に連れ込んだ。 そこは廃工場には不似合いな程に 壁も置いてある家具も、何故か高そうなものが揃っていて、伊吹は困惑した。 それより何より、何故自分は連れて来られたのか。 さっき迄の連中の目的は、何となくわかった。 サンドバッグにされる相手が3人が1人になっただけ、という事か。 ソファに仰向けに投げ出されて、硬そうな筋肉質の両腕に囲われた。 見下ろしてくる男の顔は、ちょっと見た事が無い程に整っているが、目が鋭くて、同じイケメンなら花臣の方がずっと良いと伊吹は思った。 状況をわかっているのかいないのか、じっと物怖じせずに自分を見つめてくる伊吹を、蝶野は面白いものを見るように眺めた。 そして、形の良い薄い唇を吊り上げて言った。 「小せぇケツが好きでな。」 地獄の始まりだった。
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