プロローグ

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プロローグ

 健二は傍らを歩くスノウと共に、人々が賑わう街から遠ざかり、森へ誘う細い山道を並んで歩く。  この先にあるものが、何なのか知らされていない健二にとっては、行き着く先が何であるか不安でしかない。スノウが何を考えて自分を誘ったのか思案しても、その理由を導き出すことはできなかった。一歩を踏み出すほどに、足の重みが増していくような気がしてならない。  傍らを軽やかな足取りで進む、年齢不詳で性差さえも不確かな人物。  白銀の装束を身に纏い、腰まで届きそうな赤みがかったブロンドの長髪。だが、手入れを怠っているらしい枝毛と僅かにカールの掛かった油分の足りないくせっ毛が、服装の清潔さとは反して不潔さを感じさせる。一方で、大きな両の眼から覗く大きな瞳は、黄金のような煌めきを放つ金色の左の瞳と、透き通るように澄んだ銀色の右の瞳が印象的だ。  そして、スノウには興味深い一面もある。この世界において、長寿であり、知性に溢れた魔法使いであることだ。だが、その言葉が、迷信や虚勢では、と思ってしまうほど、スノウが陰気で薄情な人物であることを知っているのは、健二だけである。それを思い出しただけで嫌気が差す。一転して自分が、どこにでもいる平凡な中学生であることに、劣等感を抱くのは言うまでもない。  夏休みの期間に、母に連れてこられた田舎の祖父母の家にやって来たことが、全ての始まりだった。あれから数日しか経っていないというのに、すでに何年もこの世界に囚われている気がしてならない。  健二の傍らを歩いていたスノウ、突然、山道から逸れると、腰の高さまで生い茂った草むらを道なき道を切り開くように強引に突き進んでいく。暫く歩き続け、薄暗い森を目前にしてようやく立ち止まった。 「ここって……何かあるの」  スノウの背後に立ち、静寂と共に迫り来る様相の長躯な木々の群生を目前にして、健二は圧倒される。 「ここは……」  気になって尋ねるが、スノウは意味深に笑うだけで答えることはなく、迷いのない足取りで木々の合間を縫うように、森の中へ足を踏み入れる。  健二もここへ留まろうとしがみついているかのように、意思に反して言うことを聞かない重い足取りを何とか引きずってスノウの後を追いかける。  低く生い茂った木と、天を突き刺すほど高々と聳える木が相まっていることで、不可思議で幻想的な光景があった。自然のままに木々が生い茂り、規則性や節理など全く感じられない。横倒しになった巨大な倒木が、枯れて虫に喰われたことで腐った部分が空洞となり、小さなトンネルと化し行く手を阻んでいる。  スノウは戯れる子共のように、軽い足取りで倒木のトンネルを抜けると、健二が付いてきているのを確認するように振り返る。その顔に張り付いた微笑みが、この時間を大切に愛おしく享受していることを何よりも正直に語っていた。 「ねえ、どこに向かっているんだよ」  森の不覚に足を踏み入れ、更に不安を募らせた健二は助けを求めるように、スノウに声を掛ける。すると、スノウは快活な口調で言う。 「君は気にしないで私に付いて来れば良いんだ……ほら、見えた」  スノウが指し示した方向に視線を向けると、健二は息をのむ。そこには、幻覚なのではないのか、と思えるほど不可思議で理解しがたい景色が広がっていた。  鬱蒼とした木々の空間に、突如として広々と開かれた場所があった。まるで、そこに一線を引いているかのように木々の壁が絶たれ、腰の高さまである茂みが空間の一面に広がっている。その空間の直中に、他の木々とは明らかに違う大樹があった。  幾つもの根が地面をしっかり把持し、青々とした苔で埋め尽くされ、十人の大人が手を繋いで囲っても足りない程太い幹から分岐した枝は、快晴の空を無数の手が翳すように末広がりになって空間を覆っている。枝から芽吹いた青葉が、昼の日差しに照らされ柔らかな暖かみをつくり出す。それは薄暗い森の中、という舞台にスポットライトを当てたような感覚に似ている気がした。  スノウと共に樹の根元まで近付いた健二は、違和感を覚える。自分が目にしている『樹』であるはずのそれが、なぜか現実味のないものに感じる。確かにそこに存在するはずの巨大な植物に実態がないのだ。考えるよりも先に、健二の手が樹の幹に触れていた。 「これは一体……」  健二は不思議な感触に思わずスノウを凝視する。手に触れた幹は、硬くどっしりとした感覚ではなく、まるで着ぐるみに触れときのようなふわりとした柔らかい感触だった。 「生命の樹だよ。君を送り届ける前に見せてあげたくてな」  スノウは恍惚な表情で、目の前に立っている樹を見上げて言う。 「これが、生命の樹」  健二は呟くように言って木の根元まで近付くと、つぶさに観察する。枝から芽吹く青葉が気になり、更に注意深く目を凝らす。  視界にある全ての青葉が『葉』ではないことに気付いた。一見すると、大きな広葉がそよ風に揺れているように見えるが、陰火のような小さな生き物が、がゆらゆらと形を変えながら細い枝にしがみついているのだとわかった。だが、その姿を正確に捉えようとすると、視界がぼやけて意識が朦朧とする。まるで実態が掴めない。 「これが精霊の姿だ」  低い声で言ったスノウが、横目で健二を見る。その面持ちが、君にはどう見える、とでも言いたげな様子なのを痛いほど感じた。 「良くわからないけど、意識を向けると気が遠くなるような感じがして」 「ああ、そうだな。精霊は魔法使いである私たちの視覚さえも超越した存在なんだよ。まあ、天神と繋がりを持つ君ならもしかすると、と期待していたが、やはり難しいか」  スノウは頭を掻きながら力なく笑う。どうやら、精霊への探究心がスノウをここまで誘ったようだ。そんなことを考えている健二を横目に、スノウは興味津々といった様子で樹の周りを何度も右往左往している。 「以前もこの樹を見に来たんだが、あのときは今にも枯れて朽ちそうな老樹でしかなかったが、今はこうして生命力を取り戻している」  そこまで言うと、スノウは健二を見据える。その視線が何かを伝えようとしているのがわかり、健二は恥ずかしさを紛らわそうと狼狽える。 「それは良かったよ。君のお陰だろ――精霊王だっけ。君がいるから精霊たちが戻ってきた。そういうことだろ」  健二がひとしきり言葉を吐き出すと、スノウはなぜか微笑みを浮かべる。 「私がいることでこの世界に幾分かの影響は与えた。だが、君が成し遂げたことは、それ以上のことなんだ。世界そのものを救ったんだからな」
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