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「爆発だってよ」
「誰かが爆弾をしかけたらしい」
満員電車のような混雑の中で、そんな声が聞こえてきた。
「上層階が吹っ飛んだんだって」
「マジかよ! まだ爆弾はあるのか?」
「逃げねえとやべえよ!」
ウソかホントかは分からないが、その場では真実味のあることに思えた。
希海がスマホの調べてみても地震速報はなく、SNSでは皆が話しているような爆弾の話題が出ていた。
「希海ちゃん、大丈夫だから」
義父は無理に笑顔を作って優しく語りかけてくれる。
「う、うん……」
不穏なことばかりの中、その言葉はとても心強く感じた。
そのとき、新たな館内放送が入った。
「皆様、お急ぎください! ビルが爆破され、崩壊が始まっています!!」
アナウンスする女性はできる限り落ち着いたしゃべり方を意識していたが、明らかにヒステリックな声になっていた。
伝えられた情報は、にわかには信じられないものだ。
しかし、皆の頭の中には一瞬にして崩れるビルのイメージがあった。
アメリカの同時多発テロ。
その放送で、空気ががらっと変わった。
逃げないと死ぬ。逃げ遅れたら死ぬ。であれば、なんとしてもビルから脱出しなければならない。
かつて感じたことのない恐怖によって、たがが外れ、皆が我先に逃げようと暴力的な手段に訴え始めたのだ。
阿鼻叫喚の地獄絵図とはこのことだった。
あちこちで激しい押し合いが起こり、殴り合いのケンカになっているところもある。怒りと悲しみの声が至るところに響いている。
「どうしよう……」
希海はどうしていいのか分からなかった。
逃げなければいけないが、あの中に飛び入る勇気がなかった。
母も怯えきって足を震わせて、何もできずにいた。ここまで気丈に振る舞っていた義父も、母の肩を抱くのが精一杯だった。
階段からは逃げられないと踏んで、窓を壊そうとする者がいた。何度も体当たりして壊れないと悟ると、近くにあった椅子を投げ始める。
窓を割ったところで逃げられるのだろうか。
希海がいるフロアは7階、飛び降りたところで助かる確率はかなり低い。
外には野次馬がビルを見上げているのが見えるが、まだ消防車やはしご車は来ていなかった。
「こんなとき、ヒーローだったら……」
非常事態にかかわらず、希海が思い浮かべるのはヒーローの救出シーンだった。窓を飛び割って現れ、特殊能力によって救助してくれるのだ。
しかしこの世にそんなヒーローはいない。テレビの中だけの存在だ。人間は物理を越えることはできず、こんな高いところへは誰も救助に来られない。
出口につながる階段は高層階から逃げてきた人も加わり、さらに混沌とした有様となっていた。
「どうしてこんなことに……。あたしが一人暮らしするなんて言わなければ……」
自分が義父との関係から逃げるために、一人暮らしをしたいと言ったから、今日ここに買い物に来ていたのだ。
自分一人が窮地に陥るならば仕方ない。けれど、このままでは家族三人が犠牲となってしまう。
自分のつまらない都合を優先せず、素直に同居していればよかったのに。希海はそう思うしかなかった。
「お母さん、お義父さん……」
希海が呼びかけると、二人は心中を察して希海を抱きしめた。
「あたし……あたしがワガママ言わなければ……。ごめんなさい……」
「何言ってんのよ。希海は何も悪くない……」
「こちらこそごめん……。何もしてあげられないなんて……」
そのとき、雪崩のような轟音が頭上から響いてきた。
それはどんどん近づいてきている。
支えとなる柱や壁を失ったフロアが崩れ、その重みで連鎖してビル全体が崩れていっているのだ。
(あたし、死ぬんだ……)
希海が死を感じたことは何度もある。殺されると思ったこともあるし、死にたいと思ったこともある。
だがそれはもう終わったことだと思っていた。新しい家族のもとで、自分は安心して生きていける。
しかし、はかない夢に過ぎなかった。
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