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彼方の夢
「文恵。彼方はな、この家を出たんだよ」
低い声で告げた夫を、わたしはぼんやりと見返す。言葉は耳に届いても何と言っているのか分からない。
家を出た? あぁ、それで玄関に靴がなかったのね。いつ帰ってくるのかしら。今晩は彼方の好きなビーフシチューなのに。
「大丈夫か、文恵。俺の言ってること分かるか?」
ぼんやりとして何も答えないわたしに、夫が問いかける。
「彼方……。いつ、帰るのかしら。お土産もあるのよ」
だって、すぐに帰ってくるんでしょう?
「彼方は帰ってこない。あの子はな、カメラマンになりたいと言っている。だから大学には行かずに専門学校に行くんだ。そのためにここを出てひとり暮らしをするんだよ」
「なに……言ってるの? そんなはずないじゃない。だって、あの子、そんなことひと言も」
「言ってたよ、彼方は。カメラマンになりたいって、ずっと。だけど君は聞く耳を持たなかった。ここで君から離れないと、彼方はいつまでも君の人形から抜け出せない。だから家を出たいと言う彼方に協力したんだ」
幼いころ、家族で旅行したときのことを思い出す。『お父さん、お母さん。ぼくが写真、撮ってあげる。そこに並んでよ』。夫のカメラを手に、真剣な顔をしていた彼方。そんなことが何度もあったから、彼方を撮った写真と同じように、わたしと夫が並んだ写真も多かった。
『母さん。俺、将来はカメラマンになりたいんだ』。記憶に蓋をしていたように、今まで忘れていた。けれど確かに彼方は言っていた。あれは彼方が高校に入ってすぐの頃。あのとき、わたしは何と返したのだっけ。
『だめよ、そんな不安定な仕事』『彼方はちゃんと大学に行って就職するの』『写真なんて趣味でやればいいじゃない』、そんな言葉でまともに取り合わなかったような気がする。だって夢を追っても叶えられる人なんてほんの一握りなのよ。
それが間違っていたの?
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