愛に生きる。

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愛に生きる。

夜と朝が混ざり合う時がいちばん好き。 僅か27歳でこの世を去った娘がいた。 ー甲斐、躑躅ヶ崎館ー 「姉上、姉上は誠に相模国へ行って仕舞われるのですか?」 「そうよ四郎。わたくしは明日、お嫁に行くのです」 四郎とは、甲斐の武将、武田勝頼のことである。この時、未だ4歳。朝も明けきらぬというのに、いつもとは違う城内のざわめきを耳にした四郎は、興味を捨てきれず、寝所を飛び出したのだ。その途中、いちばん慕っている腹違いの姉が嫁ぐことをはじめて知り、いても立ってもいられず、婚礼の支度をしている姉の部屋に侵入した。 「相模国は遠いでしょう?」 四郎は姉の膝に片手を乗せて聞いた。 「そうね、遠いかな。いまの四郎殿には遠いかな?」 自分の前にちょこんと腰を下ろし、首をかしげる四郎の頭を撫でた。杏梅莉(あめり)は明日、相模国の大名の嫡男・北条氏政の元へ嫁ぐ。 「帰って来る?」 杏梅莉は、四郎の頬を挟んでグニュグニュと揉んだ。 「帰って来たら困るのよ」 「どうして帰って来たら困るのですか。ここは姉上のお城ですよ」 「帰って来るということはね」 四郎の鼻の頭を指先で突いて、杏梅莉はわざと渋面を作った。 「わたくしは用無しって意味になるのですよ。それは困るでしょう」 笑って四郎を抱きしめると、四郎は目尻の縁を、手の甲で拭いた。 ー相模国、小田原城ー 「杏梅莉様の輿入れ行列は、一万人もの供の者が付き従い、大変豪華であったと聞き及びます」 そう話すのは、氏政の母親の瑞萌(みずも)である。杏梅莉が北条氏に嫁いで、ひと月が経っていた。ふたりは、真夏の日差しの緩やかな時刻を選び、従者を連れずに、庭をゆっくり散策していた。 「そもそも武田様と、北条は、数年前から婚姻交渉が進められておりましたが、嫡男・西堂丸が16歳で逝去してしまい、婚約は一旦白紙になったのです。しかし我が夫、氏康が後継者に決まった次男の松千代丸との婚約を武田様に申し入れた。ご存じ?」 「はい、その様に聞き及んでおります」 緊張のためか、杏梅莉が終止うつむいているので、背の高い瑞萌は腰を曲げて、顔を覗き込んだ。そしてやっと目が合うと、ニコリと微笑んだ。 「かわいい」 「えっ?」 瑞萌は杏梅莉の両頬にふれ、顔を上げさせた。 「こんなに幼い顔。其方の母上は、さぞ心配でしょうね。これからは、わたくしを実の母と思って下され。ね、杏梅莉殿」 あらっ、と瑞萌は館の方を見た。そこには精悍な面持ちの青年武士が立っている。彼は、瑞萌と杏梅莉に気づくと、丁寧に頭を下げた。 「氏政殿。わたくしの次男。母親がいうのもなんだけど、凛々しいでしょう?亡くなった長男とも良く似ているのです」 「……」 「もうそんなに緊張しないで。早く、夫の元へ行っておあげなさい」 瑞萌に背中を押され、杏梅莉は転びそうになったが、どうにか立て直して、氏政の所へ行った。 「母上が手を振っているぞ」 「えっ?」 振り返ると、瑞萌が袂を抑えて手を振っていた。氏政の年齢からして40代だと見られるが、若々しく、小袖も色鮮やかだった。化粧ののりもいい。 「これからわからないことは全て母上にお聞きになるが良い。のう杏梅莉」 「はい。そう致したいと思っております」 「誠に」 そう聞き返した氏政の顔が、とても冷たく見えたのは、杏梅莉が縁側の下に立っていて、氏政を見上げる恰好になっているからだろうか。 それから半年程が経過、杏梅莉は第一子を妊娠した。 「でかしたぞ杏梅莉。後は立派な男児を生んでくれ」 氏政の願い通り、杏梅莉は男児を出産し、無事に一歳の誕生日を迎えることが出来た。 「立って歩くようになると、目が離せませぬなあ」 小春日和の庭先で、落ち葉を踏みならして遊んでいる幸若丸を目で追いながら、瑞萌は敷物の上で、脇息に腕を乗せて寛いでいた。その隣で氏政が腕組をしていた。 「のう、氏政殿。男児は何人いても良い。かといって、ひとりのおなごが生める数は決まっておる。傍女を持ち、あと数人、男子を生ませることも、世継ぎである其方の役目と思うが」 「母上、幸若丸は未だ一歳になったばかりで、元気そのものではありませぬか。それに杏梅莉は若く、まだまだ沢山お子を生めましょう」 「まあ、そうですか、ならばよろしい。わたくしは知らぬゆえ」 急に冷めた声を出した瑞萌は、扇子で顔を隠してあくびをした。 「ささ、お父上のところへ参りましょう」 幸若丸の背中に両手を添え、杏梅莉は氏政の元へ息子を連れて行った。 「幸若丸、其方は誠にかわいいなあ」 氏政は息子を抱き上げると、頬に唇を寄せた。 「あらっ、母上様」 杏梅莉は扇子で顔を隠す瑞萌に話しかけた。すると瑞萌は扇子を下げて、目だけを見せた。 「眠たいのよわたくし」 といい、またあくびをした。 この半年後、風邪をこじらせた幸若丸は夭折。失意の底にあった杏梅莉であったが、腹には次のお子を身籠っていた。 「父上から安産祈願のお守りが届きましたの」 年の瀬、大きなお腹の杏梅莉が、そういって嬉しそうにしていた。 「富士御室浅間神社に御祈祷に参られたか。ありがたいことだ」 氏政は杏梅莉の腹をやさしく撫でながら、背中に腕を回し、彼女の身体を支えていた。 「幸若丸が亡くなったことで、わたくしが気を病んでしまい、随分と、あなたにも、甲斐の父、母にも、心配をお掛けしました」 「母上がお前を攻め立てたことも、気を病む原因になったのだろう」 順調に見えた杏梅莉と、義母の間は、幸若丸の死を切欠にして、亀裂が生じていた。瑞萌は、杏梅莉が身重なのを良いことに、氏政に側室を用意したのだったが、この時点では杏梅莉の耳に、その事実は伝えられていない。 数日後、杏梅莉は女児を出産した。 「やはりお子は女児でしたか」 我が子に会いに行く為に、廊下を渡っていた氏政が、角を曲がろうとした時、瑞萌が急に現れた。 「母上、いらしたのですか。心臓が飛び出そうですぞ」 「もう、その様な蚤の心臓で、戦に勝てますか?」 瑞萌は扇の先で、氏政の脇腹を突いた。氏政は扇を手で払い、 「女の子は可愛いですぞ、母上。良かったら一緒に顔を見に参られますか?」 「男子なら見に行きますが、おなごはよろしい」 去って行く瑞萌を、氏政は肩を落として見つめていた。 「姫でした、すみません」 生後、三日目の我が子を胸に抱き、杏梅莉は氏政に頭を下げた。 「良い良い、可愛いではないか」 「次は必ず」 我が子の寝顔を、目尻を下げて覗いていた氏政は、杏梅莉の頬を撫でた。 「気にすると身体に触るぞ」 「気にしますよ」 「なにゆえ、そう気にする」 前かがみになっていた氏政は尻を落とし、胡坐を組んだ。 「だって、瑞萌様が」 「やはりなあ」 氏政は目を瞑って首を振った。 「来ていたのか、母上?」 「はい、いまさっき」 「それで、男子を生めと?」 「世継ぎをと」 杏梅莉はじっと氏政を見つめていたが、無理に笑みを浮かべると、それが泣き出しそうな顔付になっていた。 その後、杏梅莉はなかなか妊娠することがなかった。しかし氏政は、母親の用意した側室には目をくれず、杏梅莉と娘の芳子との日々を堪能していた。 「ああ、いつになったら世継ぎが誕生するのよお」 瑞萌がそういって氏政の後をついてまわっていた頃、杏梅莉は懐妊。芳子の出産から五年後に、嫡男氏直を出産。その二年前、桶狭間の合戦で、北条と同盟関係にあった今川義元が討たれた。 「尾張の田舎大名だとばかり思っておったのに。運が良かっただけよ」 人々はそうやって、織田信長の躍進と才能を認めようとしなかった。 四年後、末娘となる寿子を出産した。北条に嫁いで十二年。この頃、杏梅莉は人生でいちばん充実した日々を送っていたのかも知れない。しかしその生活は、信玄の駿河侵攻を切欠に、終わりを迎える。 「困ったものですな」 瑞萌の部屋に呼び出された杏梅莉は、二歳になったばかりの娘の身体を抱きかかえていた。 「申し訳ありません。寿子は風邪気味でして、機嫌が悪く、どうしてもわたくしの傍を離れないのです」 「その事を申しているのではない」 瑞萌が大声を出すので、寿子は肩をびくつかせ、萎縮してしまった。瑞萌が嫡男の氏直ばかりを贔屓をするので、長女の芳子や末娘の寿子は、瑞萌を怖がり、距離を置く様になっていた。それが瑞萌にとって歯痒くて仕方がない。 「其方の父、信玄公のことじゃ。駿河へは侵攻するわ、事もあろうに織田家と同盟は結ぶわ。一体、どうなっておるのじゃ」 「それは、わたくしには」 「わかりかねぬ。そう申すのであろうと思った。確かに其方の知らぬところで事は動いておるのでろうが、少しばかりの政を知らねばならぬ。乱世に置かれた女として恥ずかしいとは思わなぬのか。そんなことでは氏政にも飽きられてしまうわよ」 「そう意地悪をいうな」 声を聞き、瑞萌と杏梅莉は同時に頭を下げた。入って来たの氏政の父、氏康であった。少しだけ開いていた襖を開け放ち、瑞萌が座っていた上座に陣取った。 「杏梅莉、北条での暮らしはどうだ?」 おもむろに聞いた。杏梅莉は身体を起こしたが、手は畳についたままで、目を伏せていた。 「氏政殿にも、お義母上様にも、かわいがっていただき」 「うん、子供たちは幾つになった?」 氏康は、薄く涙を浮かべて、母親に縋りつく寿子を見つめた。 「国王丸(氏直)が六歳、芳子が十一歳、この子が二つになりました」 杏梅莉は漸く顔を上げ、寿子の肩に手を回し、抱き寄せた。 「なら、離れられるな?」 「と、申しましと」 首をかしげる杏梅莉の前に、瑞萌は這い出て来た。 「殿、離れるとはどういう意味でござりますの?」 「お前も知っておろう、北条と武田の関係の悪化を」 瑞萌は自分の襟を撫で、ちらりと杏梅莉を見てから氏康に向いた。 「もう、はっきりいって下さらないとわからないじゃないですか」 そういわれ、氏康はうなずいた。 「杏梅莉、こうなった以上、お前には甲斐に帰って貰う」 杏梅莉は何も答えられず、きょとんとしていた。事態が把握できていない様子だ。顔を見上げ、ふっつく娘に目をやり、頬を突いた。 「殿、なにゆえ、杏梅莉を里に帰すと?」 「それは、信玄が三国同盟を裏切る行為をした…」 「なりませぬ!」 氏康の言葉を遮り、瑞萌は床を叩いた。驚いたのは寿子である。母親の胸を這い上がって来た。 「杏梅莉は正に北条の娘ですよ。氏政殿のお子を四人も生んでくれた、北条家の女なのです。それを無視して、男の都合であっちこっちにやられては困るのよ。杏梅莉は将棋の駒ではない。それにお子たちは、寿子に至っては、寝ても覚めても母親なしでは生きて行けないのですよ。どうするの」 「母上…」 瑞萌は杏梅莉に向いて、深くうなずいた。 「大丈夫よ、其方はどこにも行かせないから」 「殿、良いですか」 「黙れ、瑞萌」 今度は氏康が妻を言葉を切った。 「これは決定事項である。氏政とて承知だ」 「まさか、氏政、氏政殿はどこですか」 瑞萌は部屋のあちらこちらを見て狼狽した。杏梅莉は黙って寿子を抱きしめている。目には涙を浮かべ、泣くのを堪えていた。 「氏政は、この城にはおらぬ。明日、杏梅莉が出立した後、戻る予定だ」 「明日、そんな、殿、そんな無比慈な」 「瑞萌聞け、杏梅莉はもう納得しておる」 瑞萌は杏梅莉を見ると、彼女は縋る様に母親を見る娘の頭を撫でていた。 その晩、杏梅莉は子供達と四人で食事を取った。明日、相模を立つことは、子供達には知らせていない。鬱陶しく湿っぽい空気が苦手な杏梅莉は、陽気な話でその場に雰囲気を盛り立てた。 「こんなこと、はじめてですね、ねえ母上」 四人は縁側に座っていた。芳子が部屋を振り返り「ふふふ」と微笑んでいる。座敷には、布団がよっつ、並んで敷かれていた。 「うん、たのしいね」 饅頭を頬張りながら、足をばたばたさせているのは寿子であった。 「ああら、寿子は生まれてかずっと母上と一緒に寝ているじゃないの」 「寿子、兄上は母上と一緒に寝たことがない。寿子が羨ましいぞ」 「ごめんね、国王丸。其方には寂しい想いをさせました」 「いいのです。これが嫡男の定めでござりますから。寂しくなんて…」 そういうと氏直は母親の顔を見た。杏梅莉は遠くを見つめていたが、その横顔が泣いている様に見えた。 翌朝、子供達が寝ている間に、杏梅莉は城を出て行ったが、輿に乗る直前で、氏直が走り寄って来た。 「母上。何処へ参られるというのですか」 振り返った杏梅莉は、氏直の後ろに、瑞萌の姿を見た。寝間着姿に羽織という恰好だった。 「国王丸、そなた裸足ではありませぬか」 息子の両腕に触れながら、杏梅莉はそういって。玉砂利の上を走って来た息子を心配した。 「良く聞いて、母上は親元に帰らなければならなくなりましたの」 「どうしてですか」 「それは、もう少し大きくなったらわかります」 氏直は首を振っていた。 「父上の言い付けを良く聞き、孝行するのですよ。そして芳子や寿子を、どうか母の代わりに守ってあげて下さい。お願い、国王丸」 氏直を抱きしめた時、城門の奥から、子供達の泣き声が聞こえて来た。侍女に促され輿に乗ろうとすると、瑞萌が引き留めた。 「最後に、最後にどうか杏梅莉殿」 瑞萌は門に顔を伏せて泣いた。 「ささ、おいで」 裸足のふたりに走り寄り、両手に抱き寄せた。 「母上、旅に出るのですか?」 いつもしっかり者の芳子の肩が震えていた。 「甲斐に帰るのですよ」 「寿子も一緒に?」 寝起きの娘の寝ぐせを直しながら、杏梅莉はいいえと首を振った。寿子の目に涙が膨らみ、流れ落ちる前に、手の甲で拭っていた。 「どうしてもどうしても行かねばならぬ事情があるのです」 「帰って来ますか?」 芳子が聞いた。 「ううん、母上はね、もう卒業するのです」 「卒業?」 「そうよ、卒業。この家に来て、父上と出会い、三人のかわいいお子を設けることができました。なので卒業なのです。この国には戻って来ません」 「寿子も一緒に卒業します」 その言葉を聞いて、杏梅莉は思わず笑ってしまった。 「聞いてくれる。芳子も寿子も、そう遠くない時期に卒業するのよ」 「そうなの」 口に指を運ぶ寿子の手を、やさしく下げた杏梅莉は顔を近づけた。 「だから悲しまないで、寂しがらないで、近くにいなくても、決して姿は見えなくても、母上はいつでもあなたたちの傍にいます。約束です」 杏梅莉は、少し距離を取って俯瞰する氏直を呼び寄せた。瑞萌は杏梅莉に一礼すると、城の中へと消えて行った。 「国王丸、どうか姉と妹を頼みます」 杏梅莉は立って、息子の手を引き寄せると、自分の頬に当てた。 「お約束します、母上」 「ありがとう」 涙が流れる落ちる前に輿に乗った杏梅莉は、輿の中から子供達の顔を見た。芳子は泣き出しそうな顔をしていたが、妹の手を繋ぎ、じっと堪えていた。寿子は既に泣き出していた。手を伸ばし、母親の後を追おうとしている。氏直は下唇を噛み締めている。流れ落ちた涙が唇と通ると、荒く拭い、泣き叫ぶ寿子を抱きかかえ、芳子に目配せをして城へと入って行った。 「つらい、痛い」 心が張り裂けそうになりながら、ふと目を上げると、馬に乗った氏政が城門の影からこちらを眺めていた。 「あなた」 杏梅莉が頭を下げると、氏政は顔を背けてしまった。しかし直ぐに思い直したのか、妻を見た。杏梅莉は流れ落ちる涙も拭かずに合掌し、どうか、どうか、と子供達のことを頼んだ。 甲斐に到着した杏梅莉は、疲労で寝込んでしまった。心配した信玄や、実母が訪れても、言葉を交わすことなく寝ていた。そんな日々が三日も過ぎた頃、腹違いの妹の松姫が彼女を訪れた。 「姉様」 寝ている杏梅莉の横に自分も寝てみた。身体を横に向け、杏梅莉の腕に手を置いた。杏梅莉はとても白い肌をしている。顎の辺りなど、血管が透き通って見える程だった。そして目の下は蒼く、時折眉を寄せて涙を流した。 「悲しい夢を見ているのね」 七歳の松姫は杏梅莉が嫁いでから生まれたので、彼女と面識はなかったが、一度、手作りの髪飾りを贈ってくれたことがある。あれは五歳の誕生日だった。やさしい手紙が添えられており、三人目のお子を身籠っていると、そう書いてあった。しあわせに満ちた手紙の内容。例え会う事は叶わなくても、同じ空の下、やさしい姉が笑顔でいてくれると思うだけで勇気が持てた。なのに、帰国した姉は、こんなに悲しい顔をしている。杏梅莉の不幸が悲しくて、松姫も泣いていたら、いつのまに寝てしまった。 「はっ?」 目が覚めると、杏梅莉の膝枕だった。 「しっ、驚かないで。わたくしの名前は杏梅莉。あなたは松姫ね」 「どうしてわたくしの名を?」 松姫は寝転んだまま、杏梅莉を見上げた。 「あなたのその髪飾り、わたくしが拵えた物ですもの」 「まあ」 といって松姫が髪飾りを探る前に、杏梅莉が取り、松姫に見せた。 「あ、いけない」 起き上がった松姫は、子供ながらに着物の乱れを直し、座り直した。 「ご無礼いたしました。あらためて、松でござります」 「松姫さま、わたくしは、あめりといいます。よろしくね」 杏梅莉に髪飾りを差して貰い、松姫は照れてうつむいた。 「あの、姉上」 「なんですの」 美しすぎて、ちゃんと顔を見ることができない。松姫は頬を赤らめてうつむいた。白い寝間着姿の杏梅莉は、その様子が可笑しくて、口元を覆った。 「お加減はいかがですか?ずっと寝てらして」 「いまはとてもいい気分よ。そうね、目覚めた時に、あなたの顔が隣にあったからしら。嬉しくて」 それから一年くらいは、同じことの繰り返しであった。元気に話していると思ったら泣き出してしまう。理由を聞いても、首をふるだけで答えてくれない。寝込む日も殆どだったが、松姫は足しげく通った。秋も深くなったころ、杏梅莉は、出家をしたいと申し出た。 「出家をしたら、お寺に行ってしまうのですか?」 今朝は気分がいいからと、ふたりで城内の庭を散歩していた。 「わたくしは身体が弱いのです。お寺に入れば迷惑を掛けます。父の許しを得て、この館に置いて貰おうかと。それでもいいですか?」 「もちろん、ずっと、ずっと一緒にいたいです」 両手を上げ、松姫は飛び上がっていた。 「ずっと一緒ね…」 杏梅莉は、大きな庭石に腰掛け、遠くを見た。 「姫は七歳にして、織田家のお殿様と婚約されましたね。わたくしも同じだったのですが、わたくしの場合は松姫とは違い、許嫁の殿様に恋をしてはいなかった」 「どうしてですか?」 うふふふと杏梅莉は笑った。そして松姫の両手を持った。 「松姫はしあわせという意味ですよ」 「しあわせ?はい、わたくしはしあわせ者です。しかしそれと姉上と一緒にいられないのには何の関係が…」 そこまでいって松姫は手で口を覆った。 「そう、松姫はお嫁に行くのです。そしてわたくしは卒業」 「卒業?」 「愛する者同士を分かつものは死である。しかし政略結婚の別れは、ただの終わり。北条からの卒業。そうわたくしは自分を納得させ、夫と別れた」 「さみしい」 松姫はそういうと、そっと腕を伸ばして彼女を抱きしめた。 杏梅莉はその言葉通り出家し、黄梅院と名乗った。そしてその一年後の六月、長患いの末に、彼女は静かに息を引き取った。病床の彼女は、いつも子供達の事を心配していた。しかし最期の時、薄っすらと目を開けた杏梅莉が口にしたのは、夫氏政の名だった。 信玄は薄幸な杏梅莉の死をとても悲しみ、菩提寺黄梅院を建立し葬った。元亀元年12月20日に、妻の三条の方と娘の黄梅院両方の回向を行った信玄は、同年12月1日付で大泉寺に黄梅院領として南湖郷を寄進する判物を発給している。夫の氏政は武田氏と再び同盟した後の、元亀2年2月27日に、早雲寺の塔頭に同じく黄梅院を建立し、彼女の分骨を埋葬して手篤く弔った。 「夜と朝が混ざり合う時がいちばん好き」 松姫は杏梅莉の口癖を真似しては、早朝の空を見上げ、手を合わせた。
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