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これが金丸がいつも見ているオフの池上なのだと思うと、なぜか胸が苦しくなった。やはり敵わないと思う。ひとつも飾っていないのに、池上はキレイだった。なんなら就業中よりも若々しく可愛らしく見えて、自分にはどうしたってなれない。
「課長、突然呼び出してすみません」
「いや……珍しいな、金丸くんが潰れるなんて」
そう言いながら池上が金丸の傍に寄り、その肩に触れた。
「匡史くん、起きて」
そう言って金丸を起こそうとする池上の首元で小さな南京錠がきらりと光る。それは池上の項を守るためのチョーカーに付いていて、心配性な金丸が池上に贈ったものだった。その鍵は池上と金丸が一本ずつ持っていて、池上が外出する時は必ず付けて貰っているとさっき聞いたばかりだ。
「課長って、もう金丸と番になってるんですよね?」
「え? あ、うん……」
突然安藤が言葉を挟んだせいか、池上は少し驚いて小さく頷いた。それから自分の首元を見て微笑む。
「普通、番になったらこんなの要らないって人が多いのに変わってるよね。けど、奪われたくないって気持ちは嬉しいから」
池上がはにかんで、そう答えた。安藤はそれに、そうですか、と頷く。
「金丸、外まで運びますか?」
「いや、起こすよ……匡史くん、起きて」
池上がもう一度池上の体を揺すると、金丸の目がゆっくりと開いた。
「あ、起きた? 具合悪くない?」
池上がしゃがみ込んで金丸と視線を合わせる。
「……あれ? 聡二さん?」
「うん。迎えに来たよ。帰ろ?」
「あ……すみません……てか、俺電話しちゃいました?」
金丸が体を起こし、池上に問う。池上は立ち上がりながら一瞬こちらを見て、うん、と答えた。
「迎えに来てってね」
「え、すみません……聡二さんだって瑛蒔の世話があるのに」
「いいよ。瑛蒔はもう寝たし……僕も君に会いたかった」
この二人は番になったくせに一緒には暮していない。『結婚はまだだから』なんて金丸は言っていたが、まだ恋人で居たいのだろう。子供がいる家に一緒に住んでしまっては文字通り『家族』になってしまう。それに池上は不安を持っているんだと金丸が話していたのを覚えている。
「聡二さん……これから家に行っても?」
「そのために迎えに来たんだよ」
池上の言葉に金丸が嬉しそうな顔をする。池上の前だと、こんなに幼い顔もするのかと思うと、少し心がひりついてしまい、安藤は二人から視線を逸らした。
金丸が椅子を引く音が聞こえ、安藤、と呼ばれる。顔を上げないわけにはいかなくて、仕方なく笑顔を貼り付け、安藤は金丸を見上げた。
「悪いけど支払い頼む。明日請求して」
「おう。お前が七割、俺が三割な」
「その割り勘間違ってるだろ……まあ、いいけど」
じゃあまた明日、と金丸が池上と共にその場を去る。その後ろ姿を見て送ってから安藤は深いため息を吐いた。
「……偉かったね、安藤さん」
それまで黙って他人になり切っていた祐真が安藤の髪に触れる。安藤はそれに怪訝な顔を向けた。
「何だよ、これ」
「え? 労い? 同僚を好きになったってだけでも辛いのに番が上司って……安藤さん、ちょっとM入ってる?」
くすくすと笑う祐真の手を取り、安藤は鋭い視線を向けた。
「あんまりからかってると、痛い目みるよ? 確かにお前はアルファで俺はベータだけど、俺が年上の男であることも覚えとけ」
そう言って捨てるように祐真の手を離すと、祐真の表情が驚いたように変わる。
「安藤さん……下の名前、教えて? どこに住んでるの? 仕事は?」
「なんで教える必要あるんだよ。俺はもう帰るし、お前なんて名前くらいしか知らない他人だろ」
安藤がそう言って立ち上がると祐真も立ち上がった。
「沖瀬祐真! 大学二年生でカフェでバイトしてて……安藤さんに抱かれたいアルファです!」
店内に響くような声で祐真が叫ぶ。一瞬あたりが呆気にとられ、それから騒めく。酔った客が『兄ちゃん抱いてやれよ』なんてヤジを飛ばす。安藤はそれに耐えきれなくて伝票をつかみ取り会計へと急いだ。
「あ、安藤さん! 置いていかないで!」
安藤が会計をしている横で、僕も会計お願いします、と祐真がスマホを取り出す。その様子を横目に、安藤は店を出た。
「安藤さん! 次会うときは絶対下の名前教えてね!」
後ろからそんな声が掛かり、安藤はため息を吐く。居酒屋で隣になった変な学生なんかと二度と会うことなんかない。安藤は祐真の声を無視して駅に向かって速足で歩き出した。
終電の時間は何時だったかと、上着のポケットをまさぐりスマホを探す。けれどどこを探してもスマホが見当たらず、慌てて出たせいで店に忘れたのだと思った安藤はきびすを返し店に戻る。店の前には祐真が居て、にこりと微笑んだ。
やられた、と思った。
「……窃盗で訴えるぞ」
「やだなあ。安藤さんがテーブルに置きっぱなしだったから持っててあげたんでしょ」
祐真がそう言って安藤に近づく。
「下の名前教えてくれなくていいから、これの番号教えてよ」
言いながら祐真が震えた手で安藤のスマホを差し出す。番号を聞いてから返すわけではないのだと思うと、その不器用さになんだかおかしくなった。きっと祐真はこんなことをし慣れていないのだろう。さっきの店内での宣言といい、今彼なりに必死なのだと思ったら、少し可愛くすら思えた。
「……SNSのアカウントなら教えてやる」
「やった! 僕のも教える! DMして!」
「イイネくらいなら押してやる」
安藤が言うと、祐真は嬉しそうに笑って大きく頷いた。
「いつか……下の名前で呼ばせてね。それで……いつか僕を抱いてください、安藤さん」
祐真がそう言って瞳を潤ませる。そんな祐真に手を差し出しかけて、安藤はすぐにひっこめた。それから、じゃあな、と今度こそ駅に向かう。
――今、祐真に触れたいと思ったか、自分……
安藤はそんな考えを打ち消すように軽く頭を振ってから新しく追加されたアカウントを見つめ、小さく微笑んだ。
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