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遠い遠いその日
先生さよーならー、と気のない挨拶をして教室を出て行く生徒達を見送っていたら、小さな頭がトコトコと目の前に歩いてくる。
普段からあまり喋ることのない少年だ。
「先生、おひげついてる」
「っぇ!?」
どうしたの、とこちらから声をかけるより先に彼が訥々と紡いだ一言に、慌てて顎に触れる。清潔第一を心がけて朝に髭は剃ったし、そもそもそんなに濃い方でもないからこの時間にヒゲだなんて、と一人焦っていたのに。
彼はそっと小さな手をこちらの脇腹辺りに延ばしてくる。
「……はい、おひげ」
「……?」
差し出されたのは白くて長い、針のような糸のような──。何かも分からずとりあえず手のひらを差し出したら、そっと上に載せてくれた。
「先生も、ねこ、かってるの?」
「……あぁ、なんだ猫のヒゲか~。出掛ける前にちゃんとコロコロしたんだけどなぁ」
「ねこの毛って、どれだけ取ってもくっついちゃうもんね」
「ホントだね」
「ぼくもね、ちょっと前までは、ねこ、いたんだよ」
ちょっと前までは、ということは亡くしたのだろうなと気付いて、そっか、としか続けられずにいたのに。
彼は気にせずに笑った。──初めて見る笑顔だ。
「ボクんちもね、ときどき、おひげおちててね。ひろってお母さんに見せると、あぁミーちゃんあそびに来てくれたんだねって。来たよ~って、ミーちゃんがおいていってくれたんだねって言うの」
「……いいね。遊びに来てくれるんだ……」
しみじみと笑って見せたら、うん、と満足そうに頷いた彼がまたにっこりと笑う。
「ねこのおひげってね、しあわせを運んでくれるんだって。ボクんちにはね、おひげを入れておく箱があるよ」
「へぇ……」
「先生は先生なのに知らないの?」
「猫、飼い始めたばっかりなんだ。君の方がよく知ってると思う。……猫のこと、今度色々教えてよ」
「うん、いいよ、また今度ね」
「ありがとう」
にっこりと誇らしげに笑う顔にこちらもつられて笑い返した。
「じゃあ、ボク帰るね。先生さようなら」
「はい、さようなら。気をつけて帰ってね」
「は~い」
ひらひらと手を振ってトコトコ帰っていく後ろ姿は、いつもよりイキイキして見えた。
*****
「クロも、……遊びに来てくれるかな……」
今日あった出来事を話しながらの夕食を終えて、膝の上で寛ぐ愛猫の背を撫でながら呟く。
「気が早いね。まだまだ先の話だよ」
「うん……」
分かってはいるのだ、自分だって。こんなことを考えるのはまだまだ早すぎるし、縁起でもないと。ただ、親しい誰かを亡くすことが何よりも怖いのだ。
あの恐怖だけは、きっと一生克服出来ないに違いない。
突然奪われることの恐ろしさをもう二度と経験したくなくて誰の手も取らずにいたあの頃の自分に向かって、決して諦めずに手を伸ばしてくれたからこそ今があって、だからこそクロとも出会うことができた。そのことは感謝してもしたりないし、不満なんてあるはずもない。
とはいえ、人間と猫。どうしたってこちらが見送る確率は高い。何より、クロを残して逝けるはずもない。どちらかがどちらかを置いて逝くことはしないと誓い合って今があるのだから、相手にクロのことを任せて戦線離脱するわけにもいかない。自分達で、この小さな命の終わりを見届けるしかないのだ。
なのにいつまで経っても弱いままの自分は、遠い遠い先のことであって欲しい見送りの時を思うだけで心が悲鳴を上げてしまうのだから、情けなくて嫌になる。
「大丈夫。賢い子だからね。オレ達がどこにいたって、遊びに来てくれるよ」
そんな自分のことをよく分かってくれている優しい声が、自信を持って頷いてくれる。
ついでに頭をさわさわと撫でた優しい手のひらの温もりが、じんわりと心と体に染みていくのを心地良く感じながら、背を撫でる手に祈りを込めてみる。
(長生きして。オレ達が、おじいちゃんになっても傍にいて)
出来ないことと分かっているのにそんな酷なことを考えていたら、なぅ、と不意に小さな声で鳴いたクロがこちらを見上げた。──まるでこちらの願いを汲み取って、仕方ないな、と呆れ笑うような不思議な音と表情だ。
ぎゅっと喉の奥が引き絞られるような感覚がして、咄嗟にクロの柔らかなお腹に顔を埋めた。
「……心配するのはさすがにまだ早いよ。どれだけ多く見積もっても5才はいってないって動物病院で言われたんだから」
泣き出しそうになってしまったことに気付いたのか気付いていないのか。隣に座った颯真はオレの頭をパフパフと優しく叩いて、おどけるようにそう紡いでくれる。
必死に呼吸を整えたら、ゆっくりと顔を上げた。
「……そうだね」
「……っふ、……顔、毛だらけだね」
くしゃっとした顔で笑った颯真が顔についた毛をとるのを手伝ってくれて、くすぐったさがなくなった頃に触れるだけのキスを頬にくれた。
「まぁ、ご長寿猫世界一を目指すのも悪くないよね。たくさん遊んでたくさん食べて、たくさん寝て。一緒に長生きしようね、クロ」
ぱふん、と小さな頭を撫でた颯真と、にゃぁん、と同意の声で鳴いたクロの二人が愛おしくて、涙をひっこめるのに苦労した。
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