私を犯さないで

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 ○M県の女性○  14時02分 まゆこ S市I区 18歳 別3 ワリキリ  14時25分 みき S市M区 24歳 別2 大人の関係希望  15時26分 さゆ N市 23歳 2.5 割り切り  16時05分 まい S市 19歳 コミ3.5 割り切り  16時20分 ゆう O市 22歳 ホテル代別・2で  16時31分 はるな S市A区 23歳 本有り 3 風俗嬢  16時34分 さくら I市 18歳 別5 NN 割り  梨沙は二つ折りの携帯を開いていつものサイトに繋げた。  繋がらないんじゃないかという心配もあったが、いつものようにちゃんと繋がった。  都会を包んでいる騒めきは、いつもと同じ種類ではない。  人々は不安を抱え、絶望と恐怖に背中を押されて足速に歩いていく。  ひっきりなしに行き交うパトカー。今、梨沙のいるところからも、交通整理をしている警官が見える。信号が点かないのだからしょうがない。  壁にヒビの入ったビルディング。携帯のニュースで情報を拾いたいが、今度いつ充電出来るか分からない。  家にはさっき電話してみた。特にするつもりもなかったが、体に組み込まれたゼンマイが自動的に巻かれたように、そうした。  案の定、大袈裟に娘の身を案じる母の声が苦々しかった。まだしばらく学校にいると答えたら、ある種の安心を与えたようだった。ここまではゼンマイ。  この状況で学校になんの力があるのか、梨沙には理解し難かったが、今まで存在していた秩序がまだ残っていることに安心を見出す人種もいるのだろう。母のような。  だが実際に梨沙が今いる場所は、学校ではなかった。  顔を上げて周りの様子を見渡してみる。東北地方にある、日本有数の大都市。  つい先程、街の支配者が交代した。  今、玉座についているのは、不安と恐怖だ。  人の心に潜む欲望を具現化した都会。人間性を覆い隠すコンクリートの生き物。  それが自然の脅威によって危機に晒された。  目の前に見える頑丈なビルは、ちょっと指で押せば崩れてしまいそうだ。  かくて現実は壊され、幻想は残る。  そんなフレーズを梨沙は思い出した。これはどこで仕入れた言葉だろう。どこかで読んだことのあるものだろうか?  しばらく頭の中を掻き回していたが、やめた。それより壊れていない現実を見なくては。  梨沙は手のひらの小さな液晶の画面に、目を落とした。小さな文字の羅列がある種無機質な感動を呼び起こした。  なんだ、普段と変わらない。  そう思うと、ほっと肩の力が抜ける気がした。気丈なつもりでいても、やはりさっきの衝撃は梨沙の心にヒビを入れていたのかもしれない。  梨沙は素早く、手慣れた動作で文字を入力する。  17時10分 ありさ S市M区 18歳 別3 割りきり  電池が勿体無いので、一旦切る。少し心配はあったが、多分また繋がるだろう。  本当はまだ17歳だが、最近、規制とやらが厳しくなっているようなので、年齢を偽って入力する。  さっきからしきりに目にするパトカーの姿は、梨沙のために存在してはいない。  別3はちょっと強気だったかもしれない。でも、高く売れるのも今のうちである。高校生でなくなったら、さすがにそんな値段にはできないだろう。  それより、卒業してまでこんなことをやっているんだろうか?  やはり今のうちだ。今のうちだけだと、自らの行為に正当性を与える。  今繋げたばかりの携帯の出会い系サイトは、一応は真剣な出会いを求める男女に出会いの機会を与えるという名目上に成り立っている。  女性の利用料は無料で、男性は一つのメールを送る度にそう安くはない料金がかかるようだが、梨沙は金額がいくらかは知らない。  サイトのどこかに書いてあったような気もしたが、どうでもいいことだ。世の中にはお金を払って若い女性とデートしたいという男性が一定数いるし、その事実があれば十分だった。  掲示板に書き込めば三十分とかからずに最初のメールがやってくる。  一時間もすれば、いつも五、六通はメールが来る。とりあえず来たメールには全部一度は返事をして、その中から良さそうなものを見繕う。  なるべく話が早そうなものを選び、ホテルに行き、セックスしてお金をもらって別れる。  実際に会うのは月に2、3人といったところだ。  お金は欲しいが、使い途に困るところがある。  郵便局の通帳に貯金したら、親にバレてしまう。  洋服にも興味があったが、あまり高い格好をしていれば怪しまれる。  結局、残るものは買えない。  飲食やカラオケなどで消費するにしても限界があった。  いくらお金を持っていたって、どこにもやり場がない。それはわかっているのだが、まだやめるつもりはなかった。  せいぜい使い道があるとしたら、本だろうか。  気になる小説が出たら、文庫本になるのを待たずにすぐに買う。  学校のカバンに入れておいて電車の中で読んでしまうから、家族に知られることもない。あっという間に読んでしまって、一度読んだら、どんなに気に入ったものでもブックオフに売ってしまう。  とはいえ、さして取っておきたいと思うものはない。  本は読めば、自分の心の襞が一枚増えたような気にさせてくれる。  だが、それだけだ。現実に体験するものとは大きな隔たりがあるように感じていた。  音楽のCDも同様である。電車の中でウォークマンで聞き、すぐに売ってしまう。  それは観光旅行に似ていた。少し扉を開けて中を除いてみる。そうしてわかったような気になる。でも、実際にそこに住むのとは違うのだ。  ちなみに家の本棚にあるのは参考書だけだ。それだけで梨沙の公式な収入のほとんどを占めてしまっているから、棚の中身を増やすわけにはいかない。  梨沙が通っているM県内の公立高校は、県下有数の進学校として知られている。  頭のいい子しか合格出来ないようなイメージの学校だが、梨沙は大した勉強もせずに楽々合格出来た。  勉強は子供の頃から梨沙の得意とするところだった。というより、苦手ではなかったといった方がいいかもしれない。  好きだとも嫌いだとも感じたことはないが、小学生のときのテストはほとんどが百点だった。解答用紙を埋めるのは五分か十分しかかからないため、いつも残りの時間を潰すのに苦労していた。  他の子供達が、どうしてこんな簡単な問題で四十分もかけているのか、どうして二十点や三十点を取ってしまうのか、梨沙には全く理解出来なかった。  梨沙の記憶では、小学校のテストに難しい問題も意地悪な問題もなかった。シンプルで、普通に授業を受けていれば解ける問題だけだったのに、どうしてクラスメイトたちの頭はそれに気付かないのだろうかと、いつも不思議でならなかった。  通知表はだいたい五が並んでいたが、それを見ても何も思わなかった。  そもそも見ることすら興味がわかなかった。  いつだったか、クラスメイトの一人が一学期に三だった国語が四になったといって大喜びしていたが、梨沙の目には、それは不思議な光景としか映らなかった。  どうやらその子は、通知表に四が増えたらゲームか何かを買ってもらえるようだった。梨沙は通知表にどんなに五を並べても両親から何かを買ってもらったことはなかったし、ゲームも欲しいと思わなかった。  きっと生れながらにして歩む人生が異なっているのだろう。今は義務教育だから仕方なく同じ場所にいてやっているが、中学校を卒業したらこの子たちとは一生、会わないんだろうなと、そう梨沙は解釈した。  そんなだから、友達は少なかった。普段、一緒にいるのは、家が近所で、幼稚園の頃から知っている幼馴染みくらいだった。学校では、なるべく地味な子を選んで話すようにした。  梨沙はそれなりに綺麗な顔立ちをしていたため、中学生のときに何回か告白されたが、面倒臭そうなので全て断った。それ以来、なるべく勉強にしか興味がないという振りを積極的にするようにした。  周りの人間は、いつも梨沙を自分と同じレベルに置きたがった。それが不可能なことが分かると、梨沙との間に一定の壁を作るようになった。彼女たちの気持ちも分からないでもないが、彼女たちと同じものに関心を持つことは梨沙には難しかった。例えばテレビタレントや少女漫画、同級生の男の子といったものには。  環境には馴染めなかったが、綺麗な顔立ちと極端に勉強ができるということをもって、周りの子供たちは梨沙にそれなりの尊敬を払ってくれるようだった。  梨沙も同級生の前では、暗いところを見せないようにしていたので、一応彼女の義務教育時代は悲惨なものにはならなかったと言えた。  学校行事などにも、前向きに取り組んでいるという様子を見せていた。  でも本当は、梨沙が興味を持っていたのは、自分とその人生だけにすぎなかった。  梨沙は早く高校に行きたかった。早く自分と同じ学力を持った生徒しかいない環境に行きたかった。自分だけ突出して勉強が出来るという違和感を、早く消してしまいたかった。  自分の居場所はここではない、というこの違和感を、早く消してしまいたかった。  長い長い義務教育時代がようやく終わり、梨沙は今の高校に入学した。それでようやく肩に乗っていた大きな重荷が取れたような気分になれた。  実家のある田舎町から、乗り換えを含めて一時間以上かけて、都会の中心にある高校に通う。  近所の幼馴染みたちとも、数少ない中学校時代の友人たちとも、高校入学以来、一度も会っていない。  この地方唯一の都会といっていいこの地方都市が、梨沙がいるべき場所であるかどうかは、まだ判断がつかなかったが、少なくとも田園風景の目立つ地元よりはマシだろうと思った。  入学当初は梨沙の成績は平凡だった。勉強において都会の学生たちは梨沙より幾分か進んでいるようであった。  そのことは梨沙に劣等感ではなく、喜びを感じさせた。生まれて初めて、平凡であることの喜びを感じたのだった。  一学期の通知表には五が二つしかなかったが、それは梨沙を喜ばせた。生まれて初めて通知表に三という数字を見つけたことに歓喜した。  だが、その喜びも長くは続かなかった。徐々に梨沙の成績は上がってしまったのだ。  一年生の一学期には、希望に満ち溢れていて、勉強も頑張っていたはずのクラスメイト達が、夏休みを過ぎると途端に勉強しなくなってしまった。  梨沙以外の生徒の成績は見る見るうちに急降下した。  梨沙だって大した勉強はしていなかったのだが、学校の定期テストなどはたかが知れたものだった。  それは受験問題ではないのだ。  普通に授業を聞いていれば、どこがテストに出るか、どれが重要な部分なのかは、ちゃんと教師達が教えてくれていた。  結局ここでも、梨沙はどうしてクラスメイト達が酷い点数を取ってしまうのか、理解に苦しむということになってしまった。  そうして一年が過ぎた頃である。春休みに、サイトの存在を知った。  援助交際という言葉があることは、梨沙でも知っていたが、実感を伴うものではなかった。それは彼女が生まれるか生まれないかといった時代に、当時の女子高生を巡る問題の一つとしてあったらしい、という程度の認識だった。  内容についてはぼんやりとしか知らなかったし、それが自分の人生に関わってくるとは思いもよらなかった。  だから、梨沙がそのサイトを見つけたとき、最初に頭に浮かんだことは、世の中には便利なものがあるのだな、というぐらいであった。  セックスはしたことがなかったが、やり方は大体知っていた。保健体育の授業でも教わったが、インターネットから得た情報の方が詳しかった。  処女膜は、中学一年生のときに自分の指で破ってしまっていた。それ以来、何度も指は入れたことがある。一度、何本指が入るのだろうと思って試したことがあり、中指から始めて、一本ずつ足していったが、親指を除く4本の指まではすんなりと入った。親指も入れようとしたら入りそうだったが、手首を曲げるのが苦しくて第一関節までにしておいた。  だから、実際にそれがどれほどの大きさのものかは見てみないと分からないが、おそらく男のものを入れても大丈夫だろうと思った。  しかし、梨沙は自分のことを、特に性欲が強い方だと感じたことはなかった。  オナニーは何度も繰り返したが、性欲を解消するためというよりも、自分の身体のどこをどう刺激すればどんな反応があるのかを知りたいという気持ちの方が強かった。  サイトを使うようになって、実際に何人かの男とセックスしたあとも、それは変わらなかった。  梨沙は自分がそれなりにセックスに興味を持てることを発見したが、やはり興味の対象は快楽ではなく、自分の状態の変化を観察することにあった。  男との関わりの中で、自分がどう変わっていくのか、それを逐一確かめていた。まるで科学実験のデータを取るように。  それは性を求めているのではなく、知的好奇心の追求なのだ。そう梨沙は解釈していた。  性欲を満たすことにも、肉体的快楽にも興味はなかった。  彼女の上を通過していった男にも、男がくれる幾許かの金にも、関心はなかった。  梨沙が求めていたのは、快楽でも金でもない。純粋に知識だった。単なる詰め込みでしかない知識ではなく、実体を伴った、魂に刻み込まれるような経験的知識であった。  感覚のように時とともに移ろうものではなく、自分がこの世に生を受けたことに確実性を与えてくれるような、担保的知識だった。  その結果得たものは、まだ分からない。解釈するためにはもう少しデータが必要だ、と思っている。  時々、罪悪感というほどではないが、ある種の呵責を感じることがある。  背徳についてではない。欲の種類についてなのだ。  自分は知識欲からセックスをしている。知識欲から、知らない男と寝て、金をもらっている。  それよりは、性欲や金銭欲に溺れる方が罪が軽いのではないかと思うこともある。  アダムとイブが楽園を追放されたのは、セックスしたからではなく、知識を得たからなのだ。  また揺れた。  最初のよりは小さいけど、そこそこ大きい。  私も学校に戻った方がいいかもしれない。  でも、こういうときだからこそ、私は自分が知りたい。  こういう特別なことが起きた直後だからこそ、私が今ここに存在している意味を知りたい。  まさか人生でこんなことが起きるとは思いもよらなかった、特別な時間。  そう、この世に誕生して以来、ずっと続いてきた当たり前の時間が壊れて、梨沙は今、特別な時間にいる。  この特別な時間にセックスをしたら、私は何を感じるのだろう?  しかもどこの誰ともわからない、一度きりの相手とだ。  セックスというのは、人生に深く刻み込むような体験だと思う。  クラスメイトとか日常に顔を合わせるような関係であっても、お互いに裸になって性器と性器を噛み合わせるなんていうのは尋常なことではない。  それがそれまで人生に決して存在しえなかった相手とそういうことをし、すぐに再び決して交わらない関係になる。  改めて考えてみると、そこになんらかの正常さを見出すことなどできなかった。  すべてが異常で彩られている。その異常な体験を、この異常な時間に行うことで、いったいどんな景色が見えるのか。  そんなことを知りたいと思う私はおかしいのかもしれない。でも、知識欲ほど人を前に進めるものはない。  さっきの揺れによるものか、街行く人たちの不安はさらに大きくなったように見えた。  この人たちは、こんなときにどこに行こうとしているのだろう。  避難所だろうか?皆一様に暗く張り詰めた脅えた表情で、警戒しつつ先を急いでいる。  梨沙は、不謹慎にも幸運だと感じた。こんな景色を見る機会など、そうそうないだろう。  私はある種の目撃者としてここにいる。ここにいて、二本の足で立っているのだ。手のひらに固い携帯を握りしめて。  梨沙がサイトに書き込みしてから30分以上が過ぎた。携帯の電源を立ち上げて反応を見てみる。  梨沙の書き込みはまだ画面の一番上にあったが、男からの反応は一件もなかった。  どうしたのだろう。いつもなら、とっくにメールが来てるのに。  退屈な毎日から連れ出してくれる唯一の無機質な電子機器は、まるで目の前の現実に白旗を上げてしまったかのように沈黙していた。  男どもは怖気付いたのだろうか?  梨沙は画面の向こう側の世界の様子が気になった。血に飢えた男どもは、今何をしているのだろう。こんなときでさえ勃つのだろうか。また知識欲が現実を遊離する。  もう少し待ってみよう。  流石にいつもの日常とは違うことが起きている。さっき電話したとき、母親からもしばらく学校に居なさいと言われているから、アリバイ作りは完璧だ。じっくり待とう。  少し落ち着くと、ごく限定された領域ではあったが、梨沙の興味は自分自身から他人へと移っていった。それは今までサイトを通じて出会った男たちのことだった。  梨沙を金で買った男たちは、今どこで何をしているのだろう?彼らが心配なのではない。純粋に科学的探究を行なってみたかった。  普通、人はこういう状況では親しい人や血が繋がっている人たちの安否を気にするものであるのかもしれない。だが、この混乱した状況で梨沙の頭にあったものは、名前も知らない彼らのものが体内に入ってきたときの感覚の名残りであった。  なぜだろう、と彼女は思った。それはその身を貫くような感触こそが、彼女がこの世で手にした確固たる生の実感であったからに他ならなかった。  ずっと同じような時間が続いていくなかにあって、彼女にとっては唯一平凡に打ち込まれた楔に他ならないからであった。  また、大地が揺れた。幻想という名で固められた文明の足元を、自然は何度も揺さぶっている。  流石に学校にいた方がいいか。梨沙は頭で素早く状況を処理すると、来た道を戻りはじめた。  学校は地域の避難所として解放されていた。  田舎育ちの梨沙にとっては、この灰色のビルだらけの都会にどんな地域が存在しているのか想像つかなかったが、子どもから年寄りまで見たことのない人たちが数多く学校の敷地内にいる光景は、やはりこんなところにも生活があるのだと感じさせた。  他にクラスメイトたちもいるかもしれないが、それよりも避難してきた人の様子が知りたくて、体育館の中を除いてみることにした。だいたい、こんな機会を知ることなど、またとはないではないか。  そこには、不安そうな人たちでいっぱいになっていた。お年寄りや、小さな子供ばかりかと思っていたが、意外とOL風の人やスーツを着たサラリーマン風の人たちもいる。普段は広いイメージの空間であるが、こうしてみると意外と小さいのかもしれないと思った。  サラリーマンのうちの何人かが、突然現れた女子高生を好奇の目で見つめる。さっきまでの自分の行動と矛盾するようであるが、梨沙はその視線を嫌悪感をもって受け止めた。彼女の中には、不謹慎な奴らだという気持ちが僅かながらある。  テレビで見たような、青いビニールシートが敷かれたり、ダンボールの壁が出来たりといった光景を想像していたが、体育館の床はまだいつもの体育館の床を保っていた。  まだ地震発生からそんなに時間が経っていないのと、そもそもこの辺りはそれ程被害が深刻ではないのかもしれない。  地元のテレビ局が近いためだろう。テレビカメラが一台、撮影に来ていた。テレビで見たことのある男のアナウンサーがいた。  その彼は、この世の終わりに立ち会いながらも、職責によってかろうじて理性と尊厳を保っている、といった表情をしていた。  あの顔が出来なくては、アナウンサーにはなれないのだろうかと梨沙には思われた。彼は固い表情のまま、しょぼくれた体に悲愴な雰囲気を携えた老人にマイクを向けていた。  やれやれ、どいつもこいつも、役者になれる。梨沙はそう思った。  あの老人は、あれだけ長い時を生きて、まだ何か恐れるものがあるのだろうか。戦争を経験した世代ではないのだろうか。  遠くから、独特の緊迫感を持った話し声が聞こえてきた。それがラジオの音であるらしいと識別して、梨沙は耳をすませた。  音の出どころを確かめると、何人かの人だかりがあった。  どうやら避難した人の中に、ラジオを持ってきた人がいて、大音量で流しているらしい。  梨沙も近付いていって、ラジオの音に耳をすませた。それによって、彼女にも徐々に被害の実態が分かるようになっていった。  それは想像を遥かに超えていた。さすがにこんなときにサイトに書き込みするなどという、己の行動を恥ずかしく思うほどだった。  特に海に近い沿岸部では、津波によって甚大な被害を受けたらしい。断片的な情報を繋ぎ合わせれば、街一つが丸ごとなくなったところもあるように思われた。  ふと、海の匂いを思い出した。  過去にサイトで出会った男だった。その男は、海に近い街からわざわざ車で一時間以上をかけて、都会の中心まで来たのだといっていた。  その男が、潮と黴の混ざったような、海の匂いをまとっていた。  あの男は、どうしたのだろう?  津波に飲まれて死んでしまったのだろうか?  だとしたら、もう二度と梨沙の股に己の性器を埋めることはないのだろうか?  実際、サイトで会った男と二度会うことはない。いい常連客を見つければ、その方が商売は楽かもしれないが、関係が深まるのは嫌だ。  面倒くさくても、一回きりの相手を見つける方がいい。  序章だけでいい。表面だけあればいい。人物の複雑な裏側までを覗き込みたくはなかった。  だが、ふと、あの男の第二章が気になった。  もう一度あの男のものを股に挟んだら、自分はどんな感想を持つだろう?  梨沙は体育館の壁を背にして座り込んだ。他人から見るとショックを受けてる人のように見えるかもしれないな、と思った。  事実、ある種のショックはあった。でもそれは、人が想像するものとは、まるで違っていた。  梨沙は折り畳み式の携帯を開き、サイトに繋げた。男からの反応はまだなかったが、梨沙の書き込みのあとに、2つ書き込みがあった。19歳と21歳。  それを見て少し気が紛れた。狂っている。こんな時間に書き込むなんて、狂っている。それがサクラだとしても、狂っている。  揺れる大地よりも、すべてを飲み込む津波よりも狂っている。  大丈夫。女は元気だ。世の中はいつも通りに狂っている。  ここでこの世の終わりみたいな顔をしているマトモな人たちよりも、ちゃんとして狂っている。  そのとき隣から、梨沙に話し掛ける声がした。  いつのまにか海の匂いが、まとわりつくような老人の匂いに変わっていた。  匂いの方向を見ると、皺くちゃの顔をした小柄なお婆さんが梨沙の隣に座っていた。  老人の頬には、何かが流れた跡がある。  梨沙の目には、老人は遠く遠く、果てしなく遠くにいるように見えた。口を開け閉めして、おそらく言葉を話しているのであろう。  空気の振動が、微かに梨沙の鼓膜を震わせた。  繋がらないでしょう……電話……困ったねえ……私の息子も……ずっと電話しているのだけど……繋がらないの……今日は岩手の方へ出張……あの子車で……心配で心配で……ここの学生さんかい……よかったねえ、学校があって……家は無事だったのかい……お母さん心配してるでしょう……家の中……物が落ちてきて……怖くて怖くて……あたしは息子と二人……あの子がいないと……もしものことがあったら……ここにいれば安全ね……あなたの家の人は……どうしてこんなことが……なんて世の中だろう……学校があって良かったねえ……電話が繋がらなくて……海の近くの人たちは……とんでもないこと……神さまも仏さまも……怖いねえ……怖いねえ……なんでこんなことが……まだ寒いから……ねえ……あなたのご両親は無事だったの……ねえ…ねえ…………。若い人はいい……心細くて……ねえ…何か……年寄りはもう…………………………。  梨沙はパチンッと携帯を折り畳み、制服のポケットに入れた。  立ち上がり、颯爽と体育館の出口に向かって歩いていく。  逃げなくては。  津波に飲まれるまえに、逃げなくては。  無理に笑顔を作る必要はない。悲しそうな顔は、もっと要らない。  自分を犯そうとするものからは、逃げなくては。  私にだって、心配事はある。気にかかるものはある。  自分の中に入っていった男たちは、今何をしているのか。  海の近くの街から来た男、入ってすぐ果てた男、金を払うのを渋った男、加齢臭を我慢するのが大変だった男、文学青年風の顔の綺麗な男、日に焼けていることしか取り柄のない男、見られるのを嫌がった男………。  彼らは今どこでどうしているのか。梨沙の想像は身近にあるパセティックさから離れて、過去に現在に飛んだ。  でも、それも一瞬の間のことだった。次の瞬間、梨沙はこう思っていた。  そんな興味も関心も、全部津波に飲まれて消えてしまえ!  テレビカメラの前を横切る。ふと立ち止まり、カメラのレンズを睨み付けた。  きっと今、テレビの画面に私が映っている。それをあの男たちがどこかで目にすることがあるだろうか?  知りたい。知りたい。知りたい。でも、どうでもいい。  自分が何者であるかを、知るまで。自分がこの世界から何を取り出すのかを、私が知るまで。  ギュッとポケットの中の携帯を握りしめる。もう二度と開かないように、ギュッと。  私は津波なんかに飲み込まれるわけにはいかないのだ。
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