逃げ出した箱庭の鶏は強引で優しい伴侶に囲われる

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「目が覚めたか」 「んう、うん…………うん……?」 今朝は随分と遅く目を覚ましたリュアンの寝ぼけた瞳が俺を捉えるのを見計らい声を掛ける。段々と寝ぼけたものが茫然とした瞳に変わるのを見て声を上げて笑った。日はすっかり高いところまで昇り、部屋の中は眩しいくらいだ。邪魔な布を取り払った顔の隅々までよく見えることだろう。 「こ、皇帝陛下……!?」 ベッドから落ちる勢いで降りると同時に叩頭するリュアンの腕を引っ張り上げ、無理やり立たせる。 「そこまでする必要はないはずだがな。それとも、俺の渡した首輪を捨てたと同時に平民まで地位を落としたつもりか?」 「めめめ、滅相もございません! 皇帝陛下はどうしてここに、あれ、あれ……!?」 「昨晩お前を腕に抱いた男の手を忘れたか。薄情なものだな」 俺の腕に自らが作った引っ掻き傷に気づくと、彼は瞠目し口を半開きにさせてそれを凝視した。最近は血色の良かった顔色は白く変わり血の気が引いていて、城内でよく見たものを彷彿とさせる。 「カ、カイ……」 「お前の世話係のカイか? 奴なら俺の居ない城の留守を頼んでいる。今頃羽を伸ばしているだろうよ、暫く城の奥に引っ込んでいろと命じてあるからな」 「いいえ、ディカイ、ア、さま……」 可哀想なほど震えるリュアンの頬を撫で「そういえば」と耳元で囁いた。吐息が耳輪に触れて感じたのか、肩を震わせるリュアンの頬にいくらか赤みが増したように感じる。 「今ではそう呼ぶ者は居ないが、幼少期の渾名ではカイと呼ばれていた。お前もそう呼んでくれるか?」 そう呼んでいたのは父だけだ。二つ下の幼馴染みは渾名と同じ名前をつけられだが故に呼ばれる機会はなく、二人を除けば渾名を許すほど親しい間柄の人間は他にいなかった。 リュアンは躊躇いがちに俯く。言葉を探しているようだった。 「できません。そんな恐れ多い」 「俺の許しを得て他に何を臆する必要がある?」 「ですが、その、ディカイア様はディカイア様ですので……」 「ふ、カイと俺は違うか」 笑いながら、腹の底に半ば絶望の色を覚える。どれほど別人として尽くそうと、結局のところ同じ人物では駄目なのだ。 『カイ』はリュアンが懐くに値する優しい男になれた。それでもリュアンは俺とそのカイを同一だと見做さない。 ともすれば、昨晩あのまま優しい手で彼を抱いていれば違った未来もあったかもしれない。だが、俺はどこまでも、どうしようもなく、ディカイアであることをやめられない。加虐心を擽る被虐的なリュアンの顔を見ると優しい男ではいられないのだ。 愛していると自覚しても、どれほど深く愛しても本質は変えられなかった。ディカイアとはそういう男だ。彼をこの国に縛りつけ、追い詰めて彼を取り巻く環境すら気づかず野放しにした。 それでも、俺はリュアンを解放することができない。 「ディカイア様はどうしてここに……?」 「逃げ出した鳥を捕まえに」 リュアンの肩が一際大きく震える。赤みを帯びた頬はまた青白くなってしまっていた。 「俺の下へ戻ってきてくれるな?」 「でも、あの、お、おれ……戻ったら、こ、殺……され……」 「ヘラの暴走は俺の落ち度だ。二度と奴をお前には近づけない。丁度良い機会だ、いっそ愛人どもも全て解放してもいいかもな」 「そんなの無理です……」 「無理かどうかは俺が決める」 震える肩を抱き寄せる。周囲に言われるがまま不要なものを手元に置き続けたのはそうする必要があったからだし、それで構わないと思っていたからだ。 だが、大事なものができた。国を安寧へと導く代償としてこれを失うのならば、取捨選択の優先順位はとうの昔に決まっている。 城を飛び出してここにきた時点で、己のどうしようもない衝動のままに傷付けたくなるほど大事なものをこのまま手放すなんて出来やしないのだ。 「だって、だって……皇妃はご懐妊の身です」 「本当に俺の子供が腹の中に居るのならな」 まるで言い訳を探すように言い募るリュアンの言葉を鼻で笑う。 半年以上前、リュアンの部屋に足繁く通うことを危ぶんだのかヘラから熱心な誘いがあった。わざわざリュアンの部屋から戻ったところを押し掛けられ、跨がられ、喚くのを追い出すのも面倒だから「そうまでしたいならお前が動け」と命じて一度だけ相手をしたことがある。 本当にたった一度きりで種が根付くものだろうか。あのとき屈辱に塗れた表情で、結局一度も達しなかった俺のを咥え込んでいた女が。 「……知っているのですか?」 「何をだ?」 下から見上げて様子を窺うリュアンに聞き返せば、躊躇った様子で「……いいえ」とだけ口にした。それ以上は何も言わない。 推測はできても確証は無いのだろう、俺のように。だが何を言ったところで、脱がせたドレスの下を確かめれば済む話だ。 「全ては城に戻ればわかる話だ。あいつの囲う侍女が大量に隠し持ってる布の行方とか、あいつの懐妊と同時期に黒髪碧眼を特徴に持つ女が何人か姿を消している噂があるとかな。それで? 今の答えでお前の目先の不安は拭えたか」 彼が拒否の言葉を口にしたところで俺の行動は変わらない。大人しく連れ去るのに説得の必要があるのならば納得がいくまで言葉を尽くすし、口で言うことを聞かなければ力尽くでそうするまでだ。 俺の不穏な考えを感じたのか、手の中でリュアンの身体が身動ぎする。 「でも、俺……まだ街を、」 「リュアン、仮初の自由の身は楽しかったか」 言葉を遮り抱き寄せた肩を押す。力を込めずとも、軽い身体はいとも容易くベッドの上へと転がった。 「お前が自由と感じていたのは所詮、俺の用意した庭の中に過ぎない。ここを出て何処に行くつもりだった? 自分の国に帰るのか? お前の籍は帝国にあり、あそこにお前の居場所は無いのにか? わからないならばはっきり言ってやる。俺は一生お前を手放す気はない。逃げるのならば追ってやる。帝国の武力を以って何処だろうと攻め落とし、必ずお前を手に入れる」 一息で言い切る俺の言葉に理解が追いついていないのか、呆然とした瞳が俺を捉える。翳りのない金の瞳には苦々しい表情をした男が映っていた。 「お前は、俺から逃げられない」 逃してやれない。彼のためを思っても優しさだけで接することはできなかった。背負った国という重責と天秤に掛け、掛けた上でこれが欲しいと望んでしまった。理屈ではないのだ。理性で己を律しきれない。 「約束しよう。リュアン、お前に不自由な真似はさせない。何者にもお前を害させない。お前の望むものならば惜しみなく与えると」 黄金を称えた瞳が僅かに揺れる。その中に映る自分の情けない顔が見ていられなくなり、リュアンの上に覆い被さった。顔を少しずらせば唇の触れそうな距離で言葉を囁く。 「だから、どうか教えてくれ……どうすれば俺はお前を手放さずにいられる」 俺が喋るのをやめると部屋に沈黙が落ちた。重なる胸の鼓動は微かにリュアンのものを伝えたが、それよりもうるさい自分の鼓動がそれを掻き消す。 呼吸の合間に僅かな息を飲む音が聞こえて、躊躇いを隠さない声が鼓膜を揺らした。 「ディカイア様、俺がこの国に来たとき、初めて貴方が掛けてくださった言葉を覚えておられますか?」 問われている答えも、その意図もわからず口籠る。眉間に皺を寄せた俺を見てリュアンは柔らかく笑った。まるで愛おしいものを見るかのように。 「今と同じことを言ってくださいました。『お前に不自由な真似はさせないと約束しよう。今日からお前は俺の国の民になるのだから』と」 きっと一言一句違わぬであろうその言葉は、忘れていた記憶を思い出させる。それは俺の下へと寄越された他国の姫を相手に必ず口にする一方的な約束だった。ヘラも、他の姫も誰もがそれを当然の顔で聞き流す口上だ。彼女らは誰もが蝶よ花よと育てられ、最高の名誉として皇帝へ捧げられたのだから。 だが、リュアンは。彼の瞳は他の者にはない煌めきを見せた。きっとあのときだろう。それが何を意味する感情なのかわからないまま、俺はその煌めきに惹かれたのだ。 「厳かに俺の幸福を約束する声は、俺の心の糧になりました。そしてそう言ってくれた皇帝は、確かに俺を幸福へと導いてくれた。幸せにしてくれた」 「……こんな男に飼い慣らされる人生が幸福だっただと?」 「終わりがどんなものでも、それでも始まりは幸せでした。先を憂いることはできても過去を覆すことはできません。俺は幸せだったんです」 「辛くても、怖くても、俺にはあのとき以上の幸福な記憶が存在しないのだから」か細くそう付け加えられた言葉は聞かせるつもりはなかったのだろう。視線は交わらず、虚空を見つめる瞳は何も映してはいなかった。 「この小屋で過ごした優しいだけの男との思い出にも勝るものか?」 卑屈で意地の悪い俺の言葉にリュアンは「比べたくない」とはっきり答えた。 「確かに驚きました、カイさんがディカイア様だなんて。でも安心したのも事実です。これで俺が惹かれたのは、心も身体も許したのは皇帝陛下ただ一人なのですから」 僅かにリュアンの身体が動く。頭の角度を少し変えれば、吐息を感じるほどの距離にあった唇が触れ合った。 「ディカイア様がカイさんでよかった」 胸が締め付けられる。どうしたらいいかわからなくなり、思わず腕の中ではにかむ笑顔を向ける存在を抱き締めた。 「ディカイア様、俺を貴方のものにしてくれてありがとうございます」 「……それは、俺の下に戻ってくると解釈していいのか?」 「このさき王国の献上品としても価値がなくなっても、幸せになれなくても、俺は貴方のそばに居たい」 王国の献上品。鶏としての役割なんてどうでもいい。俺があのとき「暫く石を仕込む必要はない」と言ったのは、文字通り一時的にでもその役割から解放するつもりだったからだ。 「どうやら、俺は言葉が足りない部類の人間らしい……いいかよく聞け、幸せになれないなどと言うな。俺が幸福を約束したのだから、ただ俺を信じていればいい」 きょとりと丸くなった目が眩しいものを見るように細まる。「はい」と聞こえて、無意識に止めていた息を吐き出した。 「逃がさない」 「逃げません」 「ならば何故城に戻るのを拒否した」 「それが嫌だったわけではなくて……俺、まだ街を見ていないので」 「見る? 行くことが目的ではなく?」 「ディカイア様の治めるこの国を一目見たかったのです。王族として生まれながら、俺には望むことも許されなかった幸福な民の姿というものを目に焼き付けたかった。貴方のお陰で幸せだと笑う人の姿をこの目で確かめたかった」 恥ずかしげに、ものを強請る子供のような仕草でリュアンが上目遣いにこちらを見遣る。 「ならば行くか」 「いいのですか? ……以前、カイさんに言われました。皇帝の命令で俺を外に出すなって」 「それは……もう忘れろ。たった今約束しただろう、お前に不自由な真似はさせないと」 頭を引き寄せ先ほどより強く抱き締める。彼はもう、箱庭で手入れされる花でも鳥籠で庇護される鳥でも標本箱で飾られる虫でもない。たった一人の伴侶なのだ。 柔らかな銀に近い金髪を撫でる。うなじを覆うそれを手で払いながら、真白な首筋に唇を落とした。
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