10 もう一つの顔

1/1
前へ
/16ページ
次へ

10 もう一つの顔

 最寄りの交番に行くと,地域を管轄する警察署に送迎され,現職の警察庁長官と警視総監が遣ってきた。  彼らはジュピタラーに低姿勢だった。  僕は制服姿の長官の禿げ頭と総監の胡麻塩頭を見ていた。そして長らく口にしていない老舗の饅頭を髣髴とさせながら,ジュピタラーが元警察庁長官の柔道の弟子であり,ロンドン警視庁トップの地位にあることを知った。 「今回はプライベートな用件での滞在なのです。ですからどうぞお気遣いされませんように」精悍な顔面の眉一つ動かさず,単調な物言いをする。「ところで円さんの件についてはどうなりました?」 「その件につきましては――」総監が口をひらいた。その言葉を遮る形で身を乗りだした長官が説明の役割を奪う。「その件につきましては早速調査させましたところ,全く身に覚えがないと当の本人が主張しておるのです」 「何て言った! 生きてたのか!? 羅州は生きて――」  視線を一斉に集めている。立ちあがっていた。座りなおす――「済みません。彼は生きてるんですか」 「ええ,確かな情報です」総監が答えた。 「ははっ,御安心を――」長官が目力をこめる。「何度も奴をムショにぶちこんだ帳場(ちょうば)のデカどもが確認したのでありますから間違いございません」  総監が咳払いして長官に横目を投げた。「乱暴なお言葉遣いは慎まれては?」  長官がはっとして一点を掠めみた。「こ,これは失礼をば――」 「被害者がないなら加害者もない。事件は存在しなかった――そのように理解して構いませんね?」ジュピタラーが言った。 「さようでございます」長官と総監が頷いた。  ジュピタラーに促されて応接間を出た。 「お見送りは結構――いつも申しあげているように本当に御遠慮いただきたいのです」僕の背を押し,威風堂々と歩きだす。 「あのう……」禿げ頭と胡麻塩頭が肩を窄めている。 「まだ何か?」遥かに高い位置から東洋人を睥睨する。 「いや……実にお美しい……そちらの方とは? その……どういった御関係で?」同時に小首を傾げる禿げ頭と胡麻塩頭の頭頂部が接近し,三角形の空間をつくりだす。その空間に,群れて様子を窺う警官たちがクローズアップされた。 「友人ですよ――」  廊下の天井からぶらさがる風鈴が軽快で涼やかな音を立てた。人々はしばらく佇んで,やがて視線の焦点を意図的に散漫にさせた。マスコット犬を模る風鈴の赤い舌がジュピタラーの短髪をなめていた。
/16ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加