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10 もう一つの顔
最寄りの交番に行くと,地域を管轄する警察署に送迎され,現職の警察庁長官と警視総監が遣ってきた。
彼らはジュピタラーに低姿勢だった。
僕は制服姿の長官の禿げ頭と総監の胡麻塩頭を見ていた。そして長らく口にしていない老舗の饅頭を髣髴とさせながら,ジュピタラーが元警察庁長官の柔道の弟子であり,ロンドン警視庁トップの地位にあることを知った。
「今回はプライベートな用件での滞在なのです。ですからどうぞお気遣いされませんように」精悍な顔面の眉一つ動かさず,単調な物言いをする。「ところで円さんの件についてはどうなりました?」
「その件につきましては――」総監が口をひらいた。その言葉を遮る形で身を乗りだした長官が説明の役割を奪う。「その件につきましては早速調査させましたところ,全く身に覚えがないと当の本人が主張しておるのです」
「何て言った! 生きてたのか!? 羅州は生きて――」
視線を一斉に集めている。立ちあがっていた。座りなおす――「済みません。彼は生きてるんですか」
「ええ,確かな情報です」総監が答えた。
「ははっ,御安心を――」長官が目力をこめる。「何度も奴をムショにぶちこんだ帳場のデカどもが確認したのでありますから間違いございません」
総監が咳払いして長官に横目を投げた。「乱暴なお言葉遣いは慎まれては?」
長官がはっとして一点を掠めみた。「こ,これは失礼をば――」
「被害者がないなら加害者もない。事件は存在しなかった――そのように理解して構いませんね?」ジュピタラーが言った。
「さようでございます」長官と総監が頷いた。
ジュピタラーに促されて応接間を出た。
「お見送りは結構――いつも申しあげているように本当に御遠慮いただきたいのです」僕の背を押し,威風堂々と歩きだす。
「あのう……」禿げ頭と胡麻塩頭が肩を窄めている。
「まだ何か?」遥かに高い位置から東洋人を睥睨する。
「いや……実にお美しい……そちらの方とは? その……どういった御関係で?」同時に小首を傾げる禿げ頭と胡麻塩頭の頭頂部が接近し,三角形の空間をつくりだす。その空間に,群れて様子を窺う警官たちがクローズアップされた。
「友人ですよ――」
廊下の天井からぶらさがる風鈴が軽快で涼やかな音を立てた。人々はしばらく佇んで,やがて視線の焦点を意図的に散漫にさせた。マスコット犬を模る風鈴の赤い舌がジュピタラーの短髪をなめていた。
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