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3 ありがとう,さようなら――
羅州の背後で複合商業施設が大きく揺れた。爆裂音と震動に襲われる――商業施設の一角に爆発が起こり建物全部が炎上しながら一気に瓦解していく。
「ショッピングモール真下にのびる地下道を通る途中でやられた! 犯人が逃走したぞ!」刑事たちが血相をかえてパトカーに飛びのっていく。
「おじさん――」シャツの裾を引かれた。
「うん,早く帰ろう。僕の知ってるのとは全然違う方向へむかってる――」間部と目配せして紗架を託した。
「番号,交換してよ――」紗架がスマホを振った。
「い,いいよ……」
僕のスマホに,二つ目の異性の番号が入力された。異性と言っても一つは15歳も年下の中学生。もう一つは時々絵を買ってくれる美術商だ。
その仕事相手から電話が入る。「2箇月も休んだら才能が涸れるわ。何でもいいから描いて。あなたのグロテスクを好む客がいるのよ」
現実世界における悪夢に立ちあったばかりの夜に一睡もしないで油絵を描きあげた。
血の池に腰まで浸かる落ち武者が甲冑武将の大群を斬殺する光景だ。血の池には兜をつけた生首が堆く降りつもり層をなしながら天空にたちこめる紫雲へと繫がっていく。紫雲には美しい少年が端座して下界のありさまを眺めているのだった。
「できた――できたよ,ねえってば!」
ウツツはベッドの上でふさふさの大きな尻尾を微かに揺らしただけで起きてはこなかった。
「何だい,いつもは一番に見にくるくせして……麦茶と唐揚げはテーブルに置いておくから。トイレの水はちゃんと流してよね」
シャワーも浴びずにギャラリーへと駆けた。4時を過ぎたばかりのはずだった。きっと迷惑がられる。でも早く見てもらいたい。
インターホンのボタンを押そうとして指をひっこめる。ドアの刳りぬき部分に嵌めた磨りガラスから橙の明かりが漏れている……
ドアをあける。
モンテーニャと刺青の男がフロアに転がっていた。
絶望的だ――まるで茶番だ――ギャラリーを飛びだす。路地裏に入ったところで脇に抱えた新作を頭上高く振りあげる。こんなもの,ぶっ壊してやる!――
「おじさん?……おじさんじゃん――」
紫雲に座する少年が見つめていた。腕をゆっくりおろす。
ジャージ姿の紗架が駆けよってくる。昨日より随分小さい。厚底ブーツを履いていないせいだ。
「何してる?」
「トレーニングよ。ヤクザは体が資本でしょう。あたしたちはいつも危険に曝されてるから」
「だったら家にいなよ。駄目じゃないか,こんな時間に女の子1人で出歩いちゃ。間部は一緒じゃないの?」
「道端でばててんじゃない。間部なんか連れてちゃトレーニングになんない――あれ,何持ってんの?」油絵を覗きこむ。「すごい! かっこいい!」
「……ええ?……別にこんなもん……」
「あたし,好き!」
「そうか?……」
「見せて!」
「見なくていい」
「どうして!」
強引に奪いとられた。
「これ……」絵に見いっている。「もしかして昨日の事件を描いてあるの?」
「気味悪いだろ」
「じゃなくて――おじさんが描いたの?」
「な,何?……」
ばちんと人の背中を叩く――「すっごいじゃん! 絵描きさんなんだ!」
「……ええ?……ああ,売れてないけど……」
「あたし,お金を貯める!――で,買ってあげるね!」
「よせよ!――」
大声をあげたせいで,紗架はびくりと驚いた。
ごめんと心で謝る。でも――「そういうの好きじゃないんだ」
「……そうなんだ。ごめんなさい」頭をちょこんとさげる。
「いいよ。それに絵はもうやめるから」
「そんな――こんなに上手なのに……」
「上手じゃない。才能もない。もう疲れた」
紗架が絵をおずおずと差しだす。
「……それ……いらない?」
「はぁ?」丸い目を押しひろげる。「ていうことは?」
「捨てていい。自分では捨てられないから」
「本当! もらっていいの!」
「勿論」
「ありがと!」
「こちらこそ,ありがとう」自然に感謝の言葉を伝えられた。気持ちがよかった。
「お,お嬢! あれ,結夢! 何で!」間部が紗架とお揃いのジャージを着て走ってくる。
「この子から離れんなよ」
「だってお嬢,速すぎるんだもん……」
「あんたが遅すぎるだけだし」
久しぶりに腹の底から笑った。
「あれ?」間部が紗架の手から絵を受けとった。「結夢が描いたの? 昔から得意だったもんな――写生大会のときなんかさ,どう見たって結夢のが金賞なのに,ビビった先生が羅州のを金賞にして――」はっとして口を噤む。「お,俺……ご,ごめん……」
「羅州って,昨日の刺青の人でしょ?」紗架が僕と間部とを交互に見た。
「放っておきなよ,あんなヤクザ――」口走ってから後悔する。紗架と目があう。
「いいよ,別に――」顔を背けた。「ちっちゃいころから言われてるんだもん,もう慣れちゃった。それにあたしたちを悪く言うことで世間のみんながすっきりするなら,悪く言われるのも仕事だってパパが言うし――」
「それ,おかしいよ――君はヤクザの娘でも,みんなのストレスの捌け口になるのはおかしい。君は誰にも迷惑かけてない」
「でもヤクザの娘じゃない!――」きっぱり言いはなつ。「それだけで世間に迷惑かけてなくない? きっとあの人もあたしと同じ思いをしてきたの。だから引け目を感じておじさんと対等にむきあえないできたんだわ」
「何でそんな話するのさ。あいつのことなんか僕らに関係ない」
「あの人――おじさんに冷たくされてかわいそうだった」
「……君は……君は真っ直ぐだな。でも人間って,もっとどろどろした奴ばっかなんだよ――」
「何? どういう意味?」昨日から着がえないでいるシャツの裾を強く握られる。
「あのさ――大人になれば分かるから」
「怒ったの? 怒ったんならそう言って。ちゃんと分かるように言って」
「君とは議論したくない。帰るよ――」
紗架が僕の両腕を引きよせた。「誰とだったら議論するわけ? あたしとは議論する価値もない?」
「参ったな……」苛々が募っていた。「中学生は元気だね。オヤジは色々あってへとへとなのさ。勘弁してよ」間部の腹に紗架を押しつけた。
「おじさんが好きなんだよ!――あの人は」紗架が上気して間部を弾きとばした。「男だから駄目なの? それともヤクザだから? どうしておじさんは冷たくするのよ!」僕の胸を叩く。
べそをかく少女の頭を撫でた。「理由なんてない――嫌いなだけさ。大嫌いなんだ,あいつのことが」
涙の流れる瞳が僕を通りこし釘づけになった。
「ゆ,結夢……」間部の表情も強張っている。
背後から近づく気配に気づいたとき,街灯のつくる三つの影が八つの影にのみこまれた。
「話がしたい。ビジネスの話だ」羅州が傍らに来て煙草をとりだした。手下の1人が手を翳し,もう1人が火をつける。
「俺はいいぜ。ここで話しても」一瞥をむこうへ投げてから視線を戻し濃厚な煙を吐いた。
立ちくらみに襲われる。僕の絵が羅州に買われていたことが露呈してしまう――
紗架に片手をあげて早足で歩きはじめる。
「おじさん?……」すぐに呼びとめられる。
「学校に行きなよ。ちゃんと勉強して」どうしてそんなことを言うのか分からないまま言葉を発した。「自分を大切にしなきゃ駄目だ――誰にも引け目なんて感じなくていい――」ただ紗架に何かを伝えたかった。
彼女が走ってくるなり僕の胸に飛びこんだ。
落ちた煙草を羅州が踏みつぶす。中央の縦割れする上唇を動かそうとする――
「さようなら」彼女を無理やり遠ざけた。「心配させたくないから恐い人たちを帰してくれよ。話なら2人だけでいいだろ?」羅州を見た。
羅州が視線を逸らさないまま顎をしゃくると,手下どもが姿勢を低めて去っていく。
「おーい,間部,あと頼んぞ――もう僕らも徹夜できる年齢じゃないな。オヤジは辛いよ」ふざけた調子の言葉を羅列しながら重石のような足を運んだ。
白みかけた空の微光さえ,痛いほどに眩しく骨身に応えた。
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