4 欲

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4 欲

「もう歌うのよせ」沈黙を恐れて声を嗄らし鼻歌を(うそぶ)く僕に,羅州が背後から言葉をかけた。「おまえと俺の2人しかいねぇ」 「話って何だよ」  羅州は黙って僕を行きすぎた。  空き家の多い木造住宅やプレハブの密集地帯を貫く路地の突きあたりを右折すれば,荒ら家が建っている。 「ここで話そう」  声が小さかったのかもしれない――違う,きっと無視した。羅州はさっさと角を曲がり大柄の体をブロック塀の陰に消した。すぐにアルミサッシの音が耳に届く。  慌ただしく家を出たし,普段から鍵をかける習慣はなかった。ウツツがアルミ製の引き戸を開け閉めして自由に行き来できるようにしてあるのだ。  舌打ちして塀に凭れた。  隣家の主婦がゴミでぱんぱんの袋を持って通りすぎる。いつもは挨拶などしないのに意味ありげな目色をして会釈する。  付近の家でも鳶職の老人がオートバイのエンジンをふかす。世の中が活動をはじめる時間だ。  仕方なく足を引きずり家へとむかった。  てかてかの革靴の傍らによれよれのシューズを脱ぎすてキッチンへ入ると,テーブルの皿と椀は空だった。寝室兼仕事部屋に勝手に入りこみ,羅州が未完成の絵の大群を眺めている。  ウツツの姿が見あたらない。 「へぇ……傑作じゃねぇか……」壁に無造作に立てかけた6号Pのキャンバスを羅州が手にした。翼の折れた鷺が泥沼にのまれる瞬間をとらえた絵だ。 「こんなの何処が――」 「何処がって全部だよ。滾ってくるもんがあんじゃねぇか――これ売ってくれよ。いや,ここにあるの全部買ってやる」  道具箱からペインティングナイフを摑みとり,羅州の携える絵に振りおろす―― 「よせ,よせ,よせ!――」手首を捻りあげられる。ペインティングナイフが床に転がった。 「返せ!――」揉みあったり飛びはねたりして絵を奪いかえそうとする。「はははは……はは……」こいつは面白がっている――  純粋に絵が認められ,対価としての金を得て慎ましいながらも生活できるようになったと信じていた。だが絵のよしあしはどうでもよかった。単に僕の描いたという理由だけで,駄作は買われていたのだ――虚仮(こけ)にされていた。完全に遊ばれていた。  赤黒い頰を殴打した。もう片方も痛めつけてやる――少しは懲りただろう!――十分反省したか!―― 「そんなじゃ駄目だ――手の握り方はこう――親指は拳のなかにいれないで――」人の指の角度を両手で直し,殴り方を指南してくる。  昨日からの疲労が極度に達した。目眩がして脱力する。抱きとめられたまま膝に乗せられ崩れおちた。 「……絵を買うことで優位にでも立ったつもりか? 思いどおりにならない相手を金の力で支配したような気になれたのか?」 「……ああ,ちょっとだけ……」 「成長ないな。子供のころ邪険にされた相手をまだ恨んでるなんてさ。いい加減,大人になれよ」 「自分でもガキだと思うよ……でもどんなに頑張ったって頭から消えねぇ。いっつも考えちまう――当然じゃねぇか。始終家にいねぇ親の顔より先におまえの顔を覚えた。三つのときから俺はずっと……」 「離せよ――」 「おまえは口もきこうとしなかった。それどころか視線すらあわさない。仲よくしてもらおうとすればするほど疎まれ嫌われ虫けら以下のゴミ扱いだ」 「もう気は済んだろ。復讐したろ。僕はこんなにぼろぼろだ――」 「ごめんな……」唇を寄せてくる。「こんなつもりじゃなかったのに……俺,欲が出た……」 「やめろって!――」  白い塊が眼前に割りこんだ。羅州が僕の腰を摑んだまま後方へ倒れた。  ウツツだ――ウツツが四肢の爪を脂ぎった顔面に突きたて,今,赤褐色の頭部に嚙みついた――  急所を膝で突いた。だが腰部に食いこむ手指が解れない。教示された方法で拳を数度振りおろす――くぐもった声が漏れ,手指の力が緩んだ。  分厚い肉に保護された胸を押しとばし自由を得た。「ウツツ,こっちにおいで! 一緒に逃げよう!」  歯軋りを聞いた。羅州がウツツの短い足を握りつぶし,体丸ごと何度も床に叩きつけた。 「やめて!――」羅州に縋りつく。「猫だ,飼い猫だよ,ただのペットさ――」  ウツツはキッチンへ放りなげられた。ふらりと身を起こし頭をぶるっと震わせてから歩行の均衡のとれない状態で飛びはねながら,こちらの部屋まで戻ってこようとする。  僕はキッチンと寝室とを隔てる木製のドアを閉めた。このドアを開けることはウツツにはできない。  ギジギジジ――ドアを搔く爪音が弱々しく続いた。 「もう逃がさねぇ」ベッドに倒される―― 「待て!」  シーと人の唇に指を押しつけ,血塗れの顔を上腕でこすってから,合意なしにズボンを剝ぎとる―― 「昨日から風呂に入ってない! 自分でもにおうの,分かる!」 「おまえのにおい,欲しいわ」 「僕は嫌だ!」 「乱暴したくねぇ――観念してくれ――」下着の繊維がのびて軋んだ。 「分かった! 言うとおりにする! でもやっぱり嫌だ!」 「結夢!――」 「シャワーでいい! シャワーを浴びさせてくれ! こんなじゃ恥ずかしい!」  僕も羅州もぜえぜえ言っていた。 「すぐに終わるから。頼むよ――」羅州を見つめてその腕に触れた。
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