7 天使か悪魔か

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7 天使か悪魔か

 一家心中の起きた工場で夜を待ち,日が暮れてから線路づたいに歩き,途中で草叢に入り,身の丈をこす雑草を搔きわけて進むと,むこう側の木立に紛れる弓形の橋梁についた。  眼下を悠々と青白い水が流れていく。満月が血に染まるシャツを皓々と照らしだしていた。  高がアラサーの売れない絵描きが,生娘みたいな貞操観念をもって人殺しまでしたとは,とんだお笑い草だ。結局僕は汚されまいとして汚されたのだ。羅州に同じ低みまで引きずりおろされた。  もう終わりにしよう。生きながらえれば人殺しとして一層汚される――  静かな水面に身を投げた。殆ど2日寝ていないせいか全く苦しみを感じない。多分神さまが憐れんで安らかに逝かせようとしているのだろう。ああ,感謝いたします――  手をのばせば優しく握りかえす。やわらかな眼差しを注ぐ目は澄みわたる海の色だ。ウツツの瞳にも似ていた。 「ワーオ……何てビューティフル。キスミー……」召天するための洗礼を受ける。  妙に現実めいた神だ。ツースペーストの香りさえする。 「嫌だ!――」ばたばたもがいた。 「あら,ソーリー,恐がらないで」人を抱えて水面をぐいぐい突きすすみ浅瀬に立てば全裸の状態だ。腹筋の割れた上半身や肉づきのよい頑丈そうな腿が露わになっている――  またかよ!――あいつとの修羅場を思いだす。僕は元々苦手なのだ。裸体画の授業も徹底的に回避してきたほど人間のありのままの姿が嫌いだ。大衆の賛美する絵画や彫刻の裸体は所詮脚色されている。それに対し生身のそれはあまりにも生々しく卑しく醜い。 「あんたは神さまじゃない……」 「あたしは,ラグシャスタートン公オーゴシスメス・ジュピタリヴァー・フォッテロン――世界中に広大な領地を所有し,一族が遊びくらしても尽きることない財産を持てあます,アメリカ生まれ時々日本育ちのイングランド公爵よ」  家柄と富を自慢しているのか?…… 「スイートハニー,あなたは神さまの遣わしたエンジェルかしら?――あるいは翼の折れた堕天使(ルシフェル)なのかも?」月光を浴びる黄金の短髪がぎらぎらと輝いた。
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