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梟(ふくろう) 最終話
「付き添っていっただけでは済まず、勢い余って彼女の部屋に押し入ったですって? とんでもない、私は彼女の動向を逐一見守っていただけです。彼女の身体には誓って指一本触れてはいません。なぜって、そんなことをすれば、せっかく築いてきたふたりの関係がぶち壊しになる。まったく、あり得ませんね」
『嘘をつくな! 皆川宅のベランダ側の窓にも、入り口のドアにも、鍵は内側からかけられていた。合い鍵を持ち得ない人間が、何らかの細工により侵入したような形跡はいっさいなかった! あの夜、呼び鈴を鳴らして室内に入ることができるのはおまえだけで、それが答えだ。彼女を殺害できる可能性をもつ人間は他にいないんだからな!』
「刑事さん、何度同じことを聞かれても、答えられることはひとつですよ。私がすぐ側にいたことは認めるが、彼女がその後どうなったかは、何も見ていないし、覚えてもいないし、知るわけもない。現地には太田も含め凶漢はいなかったと思う。彼女がすでに亡くなっているとすれば、まるで、幻想のようだ。あなた方が指摘するような、残虐なことが起きたとは思えない。そう、仰るとおり、あの夜、彼女の自宅の近くにいたのは、私だけなんでしょう。でも、だいたい、私は彼女のことを心から好きだった。父親が愛娘を見守るような愛情を持っていたわけです。いくら嫉妬が肥大したとて、そのような強い愛情が殺意にまで変わることなどあるのでしょうか? 私には彼女を殺害するそもそもの動機がありません。そのことは貴方もとうにご存じのはずです。こちらが懸命に否定している以上、これに反駁するのであれば、その決定的な証拠を固めていくのは、そちらの仕事でしょうが……」
『あなたが最後に皆川を見た瞬間について、もう一度尋ねます。マンションに向かって左側から、彼女が部屋に入るところを目撃したと、そういうわけですよね?』
「その通りです。皆川さんが廊下を歩く寂しげな靴音、ドア錠を廻す金属音まで聴こえたような気がします」
『これまでの供述調書では、あなたが皆川が自宅に入るところを見ていた場所は、マンションの入り口から10メートルほど手前のゴミ回収ボックスの付近とありますが、それについては間違いありませんね?』
「その通りです。あの大きな緑色の……、上蓋の付いた……、そうそう、同じくらいのものが、たしか、ふたつ並んでいましたよね。それに間違いないです」
『私も現地に赴いて、その場所に立ちました。警察の調書にも、あなたの主張にも、皆川宅に赴いたのはこの夜が初めてということになっている。でもね、あなたの仰る場所からでは、皆川宅のある二階フロアの五つのドアのうち、奥のふたつのドアは見えない。あなたがどう主張されようと、これは確かなんです。よく思い出してみて下さい。あなたはもっと彼女の身に近づいていたのでは? たとえば、彼女の背後ぴったりに付けてセキュリティーを突破し、二階へ向かう階段の中ほどまで付いていったとか……』
「ですから、一歩も近づいていません。だいたいね、もし、あなたの仰る通りにマンション内部にまで踏み込んだのであれば、誰かにその姿を見られる危険だって遥かに増すわけでしょ? あなたはさっき、こんな夜半に街をぶらついているのは、酔いつぶれた若いサラリーマンか、あるいはOLだと仰いましたよね。その理屈を押し通すのでしたら、私が彼女のドアのすぐ近くにまで寄っていったら、その姿を帰宅途中の住民に目撃される可能性がますます高くなるということです。セキュリティーを破ってまで私が侵入したとするなら、私の姿が人の目に触れないということはますますあり得ませんね。警察の協力を得て民間が開発したご自慢の監視カメラは、その間、ずっとそっぽを向いていたわけですか? これはあり得ないことですが、万が一、彼女を殺害したとすると、自分のいた痕跡を無理にでも消そうとしたり、彼女の遺体を背負って、それを運ぶところまで見られる恐れが出てくるんですよ。そんな大胆な行動を取りますかね? ここまで細心の注意を払って、マンションまで付けてきた意味が、まるでなくなるでしょうが……」
『もう一度、申し上げますが、私自身も現場に行ったんです。ゴミ回収ボックスの手前までね。あなたは「二階のフロアを歩く彼女の姿を見た」とか「室内に入っていくところを見た」などと供述なされています。しかも、この類いの供述は、一度や二度ではない。しかしね、私が同じ位置から二階を覗こうとしてみますと、どれほど頑張って背伸びをしてもね、奥のふたつのドアは確認できませんでした。私はあなたより3センチほど背が低いはずだが、あなたの背丈でも同じことなんです。どのように角度を変えてみても、外壁の陰に入って視界から消えてしまうんです。でも、あなたは幾度となく「彼女がドアを開けて入るところまでを確認した」と仰る。この辺の供述に本当に間違いはありませんね?』
「もちろん、今さら、自分の供述を覆したりはしません。あなた方に塩を送ることになるし、こちらの主張は真っ当なんですからね……」
『では、お伺いします。あなたが本当に供述通りの位置に立ち止まったとすると、二階の奥、ふたつのドアは見えていないことになる。正確には、204号室と205号室です。さあ、あなたが彼女の背中を見たのはどちらのドアです? 分かりやすく表現するなら、彼女の部屋は向かって右のドアですか? それとも、左側ですか?』
「右です。皆川さんは奥のドアに入った」
秋本は一秒も間を空けずに即答した。本当にその場面を見た者でなければ、出せぬほどの強い口調であった。それとほぼ同時に、隣の刑事のひとりが「おい!」と、この日一番の叫び声をあげた。この一件の取り調べにおいては、この台詞だけが、唯一、当然の反応のように思われた。私は熱くなるふたりの監視員を気に留めずにこの困難な対話を続けるしかなかった。
『秋本さん、先ほども申し上げたが、あなたの立ち位置からでは、奥のドアは到底見えない。鍵の位置も表札の有無も、それどころか、ドアの色すら分からないはずです。その言葉がもし真実であるなら、あなたは彼女のすぐ背後にいて、二階のフロアへの階段のちょうど中ほどまでは登っていないといけないことになる』
「さあ……、自分が見たことだけが事実なのでね。こちらの供述を、あなた方の捜査方針に摺り寄せていくつもりはないし、何百人も動員して行なわれたはずの警察の捜索をもっても分からなかったことが、私の脳みそに分かるはずはない。ねえ、そうでしょう? 学者先生ね、あなたは先程から、私が皆川さんを追いかけていたわけではないと、実際には、先回りをして彼女を待ち受けていたのだと主張なさったわけですが、いったい、それが何だっていうんです? あの夜のこちらの供述が実際はすべて嘘っぱちで、実際には標的を先回りしていたとするなら、セキュリティーをすんなりとくぐり抜けて彼女の部屋に侵入することができるんですか? その上、皆川さんにさして不信感を与えずに絞殺することが可能になるとでも仰るわけですか? 私がどのような回答をしたとしても、そのことの裏が取れないのなら、何の意味もないでしょう。あなた方は自分らの捜査の失敗を、こちらに不本意な供述をさせることで穴埋めしようとなさっている」
秋本の目は正面に座る私ではなく、虚空を見つめるように背後の壁に向けられ、その後は少し疲れた様子で「ただ、彼女を守ろうとしただけだ」と、そう繰り返すばかりだった。時折、首を横に傾けても、その視線は刑事たちには合っていなかった。取り調べにあたっている捜査員たちは、幾度となく放たれてきた質問、もう五十回以上は繰り返されてきた質問を、リピート機能の付いた昭和のレコーダーのように、また繰り返さなければならないのだった。
『よし、それなら、なぜおまえは皆川という女性が埋められていた場所を知っていたんだ? いいか? あそこは事情を知らない人間が、偶然に通り掛かって見つけられるような場所じゃないんだ。仮にな、犯人がおまえの会社の別の人物だとしても、昔、青年団の山岳部に所属していたおまえぐらいしか知らないような場所なんだぞ。それについて、どう説明するんだ?』
「私は彼女があの場所にいることを知っていました。自分だけが知っているあの場所に、彼女をそっとしておきたかったのです。なぜって、私以外にたくさんの凶漢の手から、彼女を守れる人間はいないのだから……」
これまでに彼と顔をつき合わせた刑事は二十名をゆうに超えるらしいが、この件に関しては、すでに手持ちの矢は尽きたようである。すなわち、断固たる証拠は存在しないことを認めざるを得ないと……。『秋本被疑者以外に、殺害い及ぶ者は想定しにくい』という曖昧な容疑により、明確な証拠も示せずに裁判に挑むことになる。現段階においては、秋本という不可解な男と弁護士との接見もほとんど行われていないらしいので、彼らとしても、完全な無罪で押し通すのではなく、判断能力消失状態における犯罪を主張することで、大幅な減刑を勝ち取ろうとする手に出るのかもしれない。
何度か述べたと思うが、この秋本という男を唯一の容疑者として裁判に挑むのであれば、犯行当夜の状況を淡々と述べていくだけでは、万全な証拠とはなり得ない。歓迎会終了以降に、秋本と皆川が肩を並べているところ、またはふたりが親し気に会話をしているところ、駅のホームにおいて、酒に酔った被害者の介抱をしているところ、地元駅のロータリー以降、その後を付けていくところなどを見た者はない。いや、厳密にいえば、存在するはずだ。それは、歓迎会が行われた飲み屋の前で、ふたりを最後に目撃したと思われる同僚たちである。秋本が太田を突き飛ばして皆川をかばい、最寄りの駅まで送っていく、その後ろ姿を見た者は数人いるはずだ。しかし、その頃には、参加者の全員が泥酔していたという冷淡な事実の前に、それは万全たる証拠とはなり得なくなった。重要事件の証人に、酔った上での記憶を語らせるなど、甚だ心許ない旨を弁護団に突かれることだろう。被疑者はひとりであるが、死体遺棄が為された地点への道筋すらもつかめない以上、大幅な減刑か、有力な反証の有無によっては無罪にまでなだれ込む可能性すらある。つまり、事件当夜の忠実な再現を試みるだけでは、この被疑者を追い込むことはできない。
秋本が再三指摘している通り、被害者皆川があの夜、一度は自宅に入っていることは事実である。彼を容疑者とするなら、どうやって、ドアを開けさせて室内に潜り込めたのか、その手法の詳細を解明しなければならない。室内にいっさいの指紋や争いの跡が残されていないことも、警察側の無理な主張を、さらにもろいものにしている。玄関付近のドアノブを含めたあらゆる家具には、皆川本人の指紋が鮮明に残されている。衣服の表面には秋本や太田の指紋がいくつか確認できるが、飲み会での交流があった以上、それも有力な証拠足り得ない。被疑者があの短時間に、用意周到に工作まで行ったとは考えにくい。逃走のことまで考慮に入れれば、そのような時間的猶予はなかったはずだ。
また、皆川の遺体が発見されたのは、事件現場と思われる自宅から遠く離れた中部地方の山林地帯であり、そこまでどう運んでいったのか、どう埋めたのか、乗用車や道具の調達、共犯者はいるのだろうか、それらの説明もまだなされていない。被害者の遺体の発見という、最悪の結果が出ている以上、この件は法廷に持ち越されるだろうが、このままでは、警察側の不利は明らかである。ただ、私としては、これまでの経緯説明の前半部分において述べた、同僚たちによるいくつかの証言から、被疑者がほとんど痕跡を残さなくとも、被害者皆川を殺害できることの可能性をみている。しかし、「犯行に及んだ可能性がある」という若干曖昧な文言では、「疑わしきは罰せず」という厳格な法の前に確実に跳ね返されてしまう現状を思えば、私個人の想像において、可能性の可能性にまで踏み込んで論じていくことは、ほぼ無意味であると、そう結論付けてよいと思う。彼にこの説を聞かせてみたとて、『では、警察の実直な捜査により、ぜひ、それを証明してみせてください』と、即座に反論されることは目に見えている。その冷淡な視線は、どれだけの捜査を重ねても、そのすべてが徒労に終わる未来を知っているのだ。
もはや、何を尋ねてみても、被疑者の口から真相が生み出されることはない。この間『彼女には誰も触れさせない』という言葉を何度か呟くのを聴いた。会話は成立しない。重箱の隅を突く形で追い込んでいくと『まずは、私をここまで追い込んだ奴を探してくださいよ』そう答えて、うなだれるばかりなのである。
これまで紹介してきたこの事件は、犯罪心理学においても、実に興味深い事例であるが、この秋本という人物による犯罪の真相については、この私にも確たることはいえない。無意識的な殺人であると断じることにさえ疑念が生じる。容疑者自身が、心のどこかに隠してもっていて、未だに明らかになっていない事実が、審理開始直前のこの段階においても、まだ、存在する可能性があるからだ。
現代病をもつに至った人間ひとりによる単純な凶行であると、一言で片付けてしまうこともできそうな今回の事件である。現に事件後の数日間の間に、それに近い憶測混じりの報道や新聞記事が次々と発表されている。しかし、あと二週間もすれば、次に起こされるであろうさらに不可解な犯罪の発生により、今日の不愉快な記憶は跡形もなく踏みつぶされてしまうだろう。「我々常識人には、かのような犯罪は理解できないし、するつもりもない」と、偉そうな解説者の語るそのひと言のみで終わらせてしまうことに、先々への不安が募るのはもっともである。事実、我が国の凶悪犯罪の件数は、減少傾向にはあるが、犯行動機不明の凶悪事件については、逆に上昇傾向にある。実社会の中における、自分の存在価値や地位の低さに失望する若者たち。その多くは、空想の中にこそ理想の自分を見出だす性質をもっている。こうした人種が引き起こす、空想の肥大化による異常行動は、その周囲に存在する、社会道徳や法に従順な人間たちにとって、しばしば危険な行為となるものである。これは他人への積年の恨みや無理解や思想の偏りや犯罪手法の変化という単純な問題では説明できない。自分以外との関係を完全に放棄した人間に法や道徳によって創られた理想社会の教えは、まったく通用しないということだ。目上の人間、年上の人間への絶対的な服従を教え込まれてきた世代が、戦後の復興期に作り上げた社会構造は、こういった新種が引き起こす独特な思考体系には、まるで適用されない。教育の在り方や人間個々の理解度の問題でもない。住んでいる国がそもそも違うのだと、そう表現する他はない。
この事件に敗北した後、私はインターネットを介した凶悪犯罪をテーマにして異常行動心理学研究に取り組むようになった。数年にも及ぶ労苦の末に完成させた研究成果を、学会や専門雑誌に発表してみても、それから数日も経たぬうちには、まったく体験したこともない類を見ない事例が、その論文の上を土足で踏みつぶしていく。これまで積み上げてきた知識や経験が生み出してきた法や常識(マナー)は、今や、無限の彼方にまで拡がりつつある必要悪の発生の前に、なすすべもないのが現状である。
『サッカー日本代表の試合、チケット一枚余ってますよ。どなたか、一緒に行きませんか? 若い方で明るく対話できる人なら、男女問いません』
『箱根の旅館をお探しですか? それでしたら、本屋でガイドブックを購入するよりも、ネットの旅行会社のサイトを閲覧した方が絶対に早いです。現地の写真や動画も載っているし、体験者の評価は参考になる。人気ホテルの予約状況も、すぐに調べられますよ』
『〇〇商事にお勤めで、年収は1500万円、クレジットカードはプラチナでお間違いないですよね? 宜しければ、都内で一度会ってみませんか? こちらとしては、良い関係が築けると思っていますが』
『20万円ですか? そのくらいなら、免許証の確認だけでも融資できますよ。身分証明書が用意できなければ、親御さんの保険証ですとか、年金者受給証などでもOKです』
『あ、お母さん? 私だけど、入学のお祝いが、今ちゃんと届いたから。うん、色々とありがとね。あと、何だっけ? ああ、おじいちゃんからのボールペンも入ってたかな。うんうん、じゃあ、それも、ありがとって伝えといてね』
『あのねえ、今日は雨に降られちゃったから、ちょっと孫をね、車で送り迎えしなきゃならなくなって……、そちらの診察をとりあえずキャンセルしたいのよ。それでね、明日の三時にもう一度予約を入れて下さい。え、空いてないですって? ひとり分くらい割り込めるはずでしょ? 私はお客さんなのよ……』
人と人とが近い距離で面と向かい、互いの表情を読み取りながら対話をしていくところを、第三者が逐一追ってはいけない以上、次第に蓄積していく不満やストレス、それによる人間関係の破壊……、それがもたらす悲惨な結末を事前に抑止したり、事後捜査により完全に解決してみせることは困難である。テレビやインターネットや各種メディアやゲーム機器の発達によって、現実の存在として、自分のすぐ傍にいて、触れられる距離において行われる対話により成立していた、古来からの人間関係はもろくも崩れ去り、現代人は自分の内側に潜む何モノかとの対話にも、異様な関心を示すようになった。現実における気の合わぬ第三者との関係には、すっかり疲れきり、それに飽き飽きして、ゲームやアニメの中にこそ、生きる願望を求め、その存在を自分の理想の姿として、または、助けのひとつとして頼るようになったからだ。
本来、他人との関係は映画やドラマが軽々しく語れるほど容易いものではない。それが主従関係であれ、親子関係であれ、友人関係であれ、長期間にわたり良い関係を維持するには、筆舌に尽くしがたい苦難や徒労を伴うものである。相手の心に完璧なカーテンがかけられている以上、裏切りや失望からは誰しも逃れられない。数十年ほども前なら、人はそれらの関係を捨て去っては、生きられないという必然があった。しかし、ネット社会の台頭により、これまで盤石であったはずの法則は、次々と崩壊している。「他人との密接な関係を、必ずしも必要とはしない世界」への移行である。古来から、すべての人が他人との密接な関係を望んでいるわけではない。どの国にも、どの街にも、多かれ少なかれ孤独に生きようとする人々はいたのだろう。たとえ、周囲から変人と罵られても、そういった生活をあえて続ける人もいた。
他人との対話が避けられない局面でも、自慢話、不幸話、さして興味のない噂話の類いは、なるべくなら聞きたくはない、巧く受け流したい、できればそっと離れたい、と考える人がほとんどであろう。身勝手だと思いがちだが、決して悪い思考ではない。至極、当然の心理であり、他人の投げる話題のすべてに真摯に合わせていく方にこそ異常心理の種がある。どれだけその事実の詳細を語られても、たとえ、話し相手が妻や恋人や二十年来の親友であっても、決して現実としては捉えられない他人の現実(リアル)にまで、自分の思考をもって踏みこみたいとは思わないはずだ。週に何時間かは、人と顔を向き合わせたくないほどに疲弊した期間があることも、誰しも同じなのである。精神的負担をなるべく少なくしながら生きていきたいと願うことも、皆同じである。しかし、他人と関係を(本人の希望は関係なく)積み重ねていきながらも(巧く立ち回れば)、自己の負担や責任の一切を放棄することさえ、十二分に可能なネット社会という媒体を駆使することは、自分の精神的負担のすべてを他人に押しつけながら生活を続けていくのと同義なのである。自分の抱える不満のすべてを、名前も顔もよく知らぬ他人や、電子の海の中へと投げ捨てることが可能になった。しかし、現実世界で自然に生まれくる第三者のストレスを、セクハラやパワハラといった悪しき形で受け止めざるを得ない哀れな人がいるのと同様に、ネットに投げられた無責任な情報にも、拾い手は必ずいるのである。誰が投げたかも分からないままに氾濫する無責任情報の数々は、精神の未熟な若者たちや、社会的弱者たちの脆弱な常識を容易に揺るがしてしまう。一つひとつの事件に際して、何が良い、何が悪いといった問題で語ってはいけない。個人の尊厳(プライバシー)や常識(モラル)や理想さえ否定した社会に何が残るというのか。今続けている恋愛は、必ず結婚に繋がる、繋げたい、繋げてみせるという、かつての公理も、最近では飲み会の笑い話にさえなりつつある。精神病社会とまで揶揄されるようになった昨今、「自分だけは違う。自分の主観だけはまとも」と嘯きながら、他人の無理解を嘆きつつも、彼らとまったく同じ街を徘徊する病める現代人たちは、自分も犯罪者予備軍のひとりであることを、そろそろ、認めなければならない。たとえば、犯罪者たちの無理解をテーマに記事をまとめるのであれば、自分の無理解を脇にのけておくことは、不合理を通り越して滑稽と表現せざるを得ない。
今現在の我が国では、道徳心の育ち切っていない青少年たちによる理解不能な犯罪も含め、動機の解明しにくい事件であふれかえっている。もっとも賢明な予測をすれば、今後も増加の一途を辿るのだろう。今回の事件も、そのカテゴリの一つと仮定すれば、それほど珍しくない事例であると表現することもできる。多くの社会人は、たまに手にする新聞で事件のことを、「ああ、またこういうのが起きたか」と一度は嘆き、一読はするが、大した興味も持たずに、スポーツ面にさっと目を通した後で、それをくずかごに投げ捨てる。その犯罪者の身元に心当たりがなければ、もう二度と思い出すことはないだろう。人間の内面から、道徳と感情を取り払うことは出来ても、恋愛と嫉妬という単純な二重構造を否定することができない以上、この目まぐるしい、そして、きわめて淡白で薄っぺらい時代に生きる誰もが、今回の被疑者のような発作を起こす可能性を秘めている。
あの日、不毛で無機質な空間の中で、ひとりの男と向き合ったことを、時々思い出す。彼の言葉は確かに冷たく異質であったが、それはここ数年の間に、意図しないまま、自分の身に染みついていた冷たさでもあった。警察側と事件を起こしたとされる人々との関係からは、いつの間にか、更生や教育という概念がまっさらに消えて、完璧な敵対心のみが残された。誰も彼もが徐々に感情を失っていくと仮定するのなら、互いの偏った思想や常識のぶつけ合いを発展させていくだけでは、事件が起こされたとされる、まさにその瞬間、実際には何が起きていたのか、被害者と加害者とその関係者が、その真実を知ることは、より困難になっていくはずだ。他人とのふれ合い、他人の表情の変化から、その心理を推し量ることを完全に捨て去った社会。あの取調室の冷たさと虚しさは、そのままネットに支配された社会全体の痩せた付き合いから派生したものである。社会からそそがれる視線。彼と私の気持ちが、真に向き合うことは、そもそも、叶えられないことだったのだ。
今回のこの事件は、この世知辛い社会に順応することができないままに、己の精神を破綻させていたひとりの男の、心の一番奥に潜んでいた鋭い爪や、闇夜でのみ光るその眼光を、常識世界に生きていると自称する我々が、感じ取ることが出来なかったという、ただ、それだけのことである。
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