梟(ふくろう) 第二話

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梟(ふくろう) 第二話

 秋元容疑者が皆川という新入社員の存在を初めて知ったのが、五月九日のことである。同僚の言葉を借りれば、秋本のこの日の仕事振りについては、普段と特別変わりはなかったという。だが、いつもよりも、さらに長時間にわたり物思いに耽る様子が見られ、少々落ち着きもなく、若干気分が浮ついているようにも感じられたという。供述によれば、彼はいつも通り、始業直前の午前八時五十五分に社員カードを通し、そのすぐ先の狭いロビーで、この皆川という女性社員とすれ違った。初めはこの女性の素性がまるで分からなかったらしい。それは、自社の人間なのか、他社からの訪問者なのか、それとも、道を尋ねるために立ち寄っただけなのか、それすらも判別がつかなかったという意味である。ひとつ注目すべきは、その通り過ぎた折に、彼女から声をかけられている。親しみのある笑顔で丁寧に挨拶をされたという。  自分の職場に、今春女性の新入社員が配属されるということは、部内の会議において、部長による報告の中にあり、事前に知らされていた。凛とした紺のリクルートスーツという見なりからして、彼女がまだ新卒の社員であることは、この時点で容易に察しがついたという。ただ、それが自社の人間で、しかも、今後、同じ部署に配属される存在であるとは、瞬時には想像がつかなかったと供述している。ここ数年来、不眠症気味の彼は、この早朝の出来事に、まだ意識が追いつかなかった可能性もある。端的にいえば、秋本は一目で、その清楚で大人しそうな風貌の女性を気に入ってしまった。本人の供述によれば、もう十数年以上にわたり、まともな恋愛を体験していない彼にとって、それは青天の霹靂のような、心さんざめく出来事であったらしい。警備員や他の女性受付スタッフもその場にいる状況では、動揺をひたすら隠し、努めて平静を装い、どもりながらも、何とか挨拶を返すことはできたらしい。ただ、その心中のかなりの混乱については、強い記憶として残ったという。  殺人事件発生後の取り調べにおいても、彼は何度となく、そのことを認めた。「私は彼女の存在に対して、激しく心を揺さぶられた」と。ロビーで会った女性に未練を残しつつも、彼は嫌々ながらに三階まで上がり、自分の席までたどり着くと、少しでも気分を落ち着けようと、まずは、缶コーヒーを口にしたという。  しかし、間髪入れずに、同僚の尾上という女性に話しかけられることになる。この日の出来事を語る話しぶりには、少しの澱みもなく、実に滑らかであった。秋本はこの尾上という女性社員については、ひどく苦手だった。もっと言ってしまえば、極端に嫌っていたという。それというのも、この女性はいくぶんヒステリーなところがあり、通常の女性のそれとはまた違って、他人の行動への不満ばかりではなく、自分の口から矢継ぎ早に発せられる、熱っぽい言葉によって、想像の風船を際限なく膨らませていき、どんどんと無用な興奮や混乱を引き起こしていく性質(タチ)なのだという。最終的には、自分がいったい何を話しているのか、何を説明しようとしていたのか、何に対して憤っているのか、本来の話題はいったい何であったのか、さえも分からなくなってしまうのだという。同僚のひとりとしては、辛うじて認めても、友人としては、とても、付き合いきれなかったらしい。  その当日の迷惑極まりない怒りの発生原因は、他の同僚による、情報の伝達ミスや点検の見逃しなど、明らかな落ち度だけではなく、もっと身近なところにも及び、例えば、壁のポスターの貼り位置が、前の月のそれとは少し変わっているとか、ロッカーの上の花瓶の角度が気に喰わない、あるいは、後輩たちの電話応対の悪さなどに及び、それらの心理的な食い違いが、自分にとって少しでも気に食わなければ、遥か目上の上司までを乱暴に呼びつけ、大声で文句を言い放つという。ただ、そんな彼女の様子もこの朝については、普段よりは幾分落ち着いて見えたという。そこで、少しは会話に応じる覚悟を決めたらしい。 「ねえ、聞いた? 須藤さんのこと……。あの人、昨日からゴホゴホと咳してるけど……、マスクもなしに……、完璧に風邪を引いてるみたいね。でもね、それほどたちの悪い風邪が流行る季節でもないのよ……」  彼女はここでひとつ間を入れた。聞き手が自分の味方か、それとも敵なのかを見極めようとするように。秋本が嫌々ながらも、気を使って合いの手を入れると、タンバリンを鳴らすお猿のオモチャが、再びネジを巻かれたように話し始めた。 「最近、残業が続いていたみたいだから、体調を崩すのも、ある程度は仕方ないんだろうけど、そういうときに誰かがカバーしてあげればいいのよね? 自己責任ともとれるけど、それって、こちらからだと言いにくいわけでしょ? 私って、別に管理職じゃないし……。秋本さんだって、そう思うわけでしょ? 私が彼女と同じ部所の人間なら、そんなときに、絶対放っておかないと思うわ。仲間が体調不良で弱っているときに、きちんと手を差し延べてあげられるのが、一般的な社会人でしょう? (ここで、さらに険しい顔つきになり、秋本の顔を鋭く凝視する) だいたい、本人も相当おかしいのよね。そんなに状態が悪くなるまで、遠慮もせずに出てきて、休まずに働き続けるなんて! いったい、何様のつもりなのかしら! そんなになってまで、自分の評価を上げたいと思ってるのかしら? まあ、それを真面目だと表現するなら、それはそうなんでしょうけれど、やっぱり社会生活を営む上での大前提として、体調の自己管理くらいは、きっちりとしてくれないと困るのよね。これじゃあ、おバカさんと言われても、仕方ないところよね」  風邪ひきさんをかばいたいのか、それとも、けなしたいのか。あるいは、訴えたいのか。いったい何に対して憤っているのかが、容易には分かり辛い。自分とは一切関連のない、このきわめて不毛なる説法を、ただ一方通行により聞かされているばかりであり、口を挟むことすら、させてもらえない展開が続いたらしい。かといって、ここで言い訳じみたセリフを残して、ただ立ち去ってしまうと、今度は自分の悪口までばらまかれるという、容易ならざる展開にはまる気がしたという。 「だからね、三十七度以上の熱が出たなら、取り敢えずは出社はしないとか、咳が止まらない日は、周囲の人のことを考えて、午後休を取って帰るとかのルールを作ればいいと思うのよ。それはあなたにもわかるでしょ? 言っておくけど、これは私が独断で言ってるわけじゃないのよ。職場のみんなにとって、とても有益なことなんだから。定例の部会で言ってもいいのだけど、それじゃ、遅すぎるのよ。だって、あと一時間後にでも、彼女の口からばら撒かれたウイルスが私の肺にまで、到達するかも知れないんですからね。でしょう? そうなってからじゃ、完全に手遅れでしょ? 私はまったく無関係な人間なのに、これだけの危険にすでに巻き込まれているわけですからね!」  もちろん、四十も半ばに達して、万年平社員であり、特に成績が優秀なわけでもないのに、こんなに小うるさい女は、たとえ、大人しくしていても、誰からも相手にされていないわけだが、彼女はとにかく自分の思い通りに寸分の狂いもなく、キッチリと周りの人間が働いてくれないと気が収まらないらしい。よって、様々な不具合を分単位で次々と見つけては、職場の中に勝手なルールを作り出していくのである。勤務中、どんなに暇になっても書籍や新聞を読んではいけないとか、パソコンの機器の近くにはあらゆる飲み物を置いてはダメだとか、カラーコピーはまとめてとらないで、後ろに並ぶ人のことを常に考えて、少数枚ずつ分けてとるようにするとか、健康のため、甘いジュースやコーヒーは一日一杯にするとか、禁煙を心がけるようにするなど、出会いしなの挨拶はハッキリと聴こえる声で、なるべくなら自分からせよとか、言われてみれば、その通りなのかもしれないが、仕事外の細かいマナーに関することを、上役でもない人間から強制されると、大抵の人間は苛立ったり、窮屈に感じるものだ。彼女は勝手に作ったルールを自作のポスターにして壁に貼りだし、自分の中で築き上げた常識を、会社全体のルールにまで高めようとするのだった。このような対応に関しては、隣り合っている様々な部所からの苦情が多々あるようだが、別に悪いことをしているわけではないから、上司も苦々しさはあっても、こういった行為を黙認せざるを得なかった。 「ねえ、そういえば、今年はうちの課にも新人が入るらしいわよ。朝、ロビーで会わなかった?」  突然、核心を突く質問が飛び出したため、秋本は平静を装うのが大変だった。 「ああ、ちらっと見たけど、なんだか、静かそうな子でしたね。うちは会話を要求する人が多いし、賑やかな部所だからついていけるのかな?」  なんとか心を落ち着けようと、尾上とは目を合わせないようにして、さりげなく答えることができた。今朝の出会いには、一目惚れに近いような、特別な感覚を受けたのだが、この口の軽いおバカな女に、その心情を絶対に知られるわけにはいかないと、秋本は直感的に思ったのだという。彼女に知れてしまったら、その日のうちに、本領発揮中の香港B型のように、この狭い職場のどこまで噂が伝染してしまうか、想像するだけでも恐ろしかったという。彼は冷静とはいえなかったが、自分の感情をコントロールすることは得意で、職場において、その鉄面皮を崩すことは滅多になかった。  この尾上という女性の特性は、他人から何らかの形で得てきた情報を、中身をまったく簡略化せずに、自分の感想や批判をこね合わせた上で、伝言ゲームよろしく、次の人まで伝えていかねば気が済まない、新種の九官鳥のような人物だという。時々は自分の家族や親族の痴話など、身内に関わる情報をネタとして扱うこともあるようだが、自身は平凡な家系の生まれで、身寄りも少なく、それほど派手な生活をしているわけではないので、人を惹きつける面白い話題とはなり得ず、会話を紡いでいく中で、すぐに手持ちぶさたになり、話し相手の情報頼みになってしまうことが、この特性の最大の問題点だという。  もちろん、この女性の情報の受け手として、話し相手になってやる社員も、職場内にゼロではないのだが、ほとんどの社員は彼女を心底毛嫌いし、側を通りがかると皆話すのを止めて、自分たちの個人的な情報が、情報磁石であるこの九官鳥には極力漏れないように努めていた。尾上本人は他人の負い目を骨の芯までしゃべり尽くすことで、快感を得ているのだろうが、本当のところ、誰とも心打ち解けるところがなく、誰からも本当の気持ちを伝えられることもない人なのだとか。秋本はそんな彼女を、時折哀れに思うとも供述していた。  尾上は秋本の顔をしばらくじっと見て、新たな火種はないのかと、を探っているようであったが、こちらが有益なる情報を何も持っていないとわかると、別れの挨拶もなく、唐突に彼の机を離れて、次の話し相手を求めて飛び立って行くのだった。相手が誰であっても、おそらく話しかける内容はほぼ一緒である。彼女が誰かの失態や中傷を伝えて歩くたびに、社内には不穏な空気が少しずつ蔓延していくという。秋本は刑事からこの女性について尋ねられると、「彼女が特定の社員の秘密を漏らし続けることが、人と人が接する上で、無用なトラブルの原因になっていた。こういう女がいなければ、企業社会はどんなに平和になるかわかりません」と冷静な口調で語った。秋本は自分の能力や評価のことにはさして興味を持てないと話す一方で、こうした他人の特徴にはやたらと精通していて、その、どこを見ているのかわからないような瞳で、他の社員のことについても楽しそうに語った。  秋本のその日の仕事ぶりは、彼にしては比較的順調であったという。ところが、午後になって、彼が作成した書類、(新規に受注したばかりの顧客関連のものである)これに若干の指示ミスがあり、上司からの叱責を受けて、そのやり直しをする羽目になった。そのため、六時半過ぎまで会社に居残りをする羽目になった。五時に終業を迎える会社としては、嫌な残業であるが、秋本は例えミスによらなくても、その作業効率の悪さから、何も起こらない日でも、このぐらいの残業を強いられることは比較的多かったという。しかも、この日については、彼は今朝会った新入社員のことばかり考えていたので、仕事はまったくはかどらなかった。彼が十年ぶりに体験する心の高ぶりであるから、無理からぬところである。ちなみに、その皆川さんは、この日は新人研修のため外出しており、職場には一度も姿を見せなかった。秋本はきれいに整頓された、真新しい彼女の机を何度もその目で確認して、昼を過ぎて、ようやく、今日は彼女が出社しないことが判明すると、ひどく残念がり、早く一緒に働きたい衝動に駆られた。彼女の日々の成長を確認しながら、これからの日々を充実させていくことが、退屈で不毛な時間の流れに際悩まされている彼にとって、新しい楽しみになりそうな気がしていたのである。  ところが、この日は残業時間に入り、秋本の監督をするために、一緒に残ることになった上司の井上という男から、「なんで、おまえのつまらんミスのせいで、俺まで残業しなければならんのだ。自分の能力のなさで他人にまで迷惑をかける気か」という叱責の言葉を受けたという。  この井上部長についても、秋本は詳しい人間観察をしていた。取り調べ中に彼のことについて尋ねられると、長年に渡り、自分の腹に据えていた汚泥の吹き溜まりを刑事たちに向けて、何でも遠慮なくぶつけてきた。ただ、この上司のことに限らず、秋本の口からは同じ部所で働く同僚たちの詳しい生態を残らず聞くことができた。捜査班にしても、会社の同僚の生態についてまで知りたいわけではない。その程度の恥部はどの企業にも存在することくらい分かっている。ただ、この不可解な容疑者の動機と殺害方法を聞き出すために、まずは、彼の話しやすい事柄に的を絞っていた。  その結果、この秋本という男は自分の身の回りにいる人間たちを、野生動物になぞらえて、内心で笑い飛ばす癖があることが分かった。あるいはそうすることによって、自分の社会的地位の低さから生まれる屈辱を何とかを霧散させ、紛らわそうとしていたのかもしれない。彼の言葉を借りると、人間は日々の労働に追われて、効率主義一辺倒の単純思考で働くようになると、その生態が動物に近くなっていくそうで、例えば、女性社員の中には、他人のやること成すことにすぐに興味を示して介入してくるカラスやノラ猫が多くいて、男性社員の一部には、他人の行動のすべてに敵意を持って睨みつける野犬の存在があるらしい。その他にも、仕事が暇になると何の用事もないのに、すぐに他人にちょっかいをだす山猿や、ところかまわず話題を振り撒く九官鳥、あるいは、勤務時間ど真ん中にあっても、自分の意向のみを優先させて、職場から勝手に抜け出してタバコを吸いにいく黒豹についても、楽しげに話して聞かせた。ただ、一匹狼とナマケモノの存在については、この職場に限った話ではなさそうだが。  ちなみに、この井上部長は彼が表現するところではゴリラにあたるそうで、それはなぜかと尋ねると、身体はでかいが、ちょっとした出来事に直感的に反応し、その上、ひどく怒りっぽく、行動が極めて単純で、上昇志向がある割には、まったく知性の足りない人間だからだという。秋本はこの井上の話を始めると、その言葉に熱を持ち、口が止まらなくなった。  この職場では毎朝九時頃から、その日一日の作業の進行予定を上司が報告する朝礼があるのだが、その場は井上という男の独演会なのだという。彼はひとたび気分よく話し始めると、その日の作業の内容だけには留まらず、今の時期にはまるで関係のない遥か未来の予定までを、気分良さげに延々と話し続けるという。余計な知識を洗いざらいぶちまけることは、聴いている人間の最低限の理解を妨げるばかりか、無用な混乱を引き起こすことになるのだと、秋本は断じる。その無駄に長い演説ゆえに、この朝礼を不必要だと感じている社員も、実際には多くいるらしい。  この井上という上司の口癖は「そういう細かいことは、私ではなく関連部所に言ってくれたまえ」と「俺の命令を一回できちんと把握できないないやつはチンパンジー以下だ」の二つらしいが、彼自身も、他人から受けた、重要な連絡事項をたった五分足らずで忘れてしまうことが多いらしい。責任感にも乏しく、他の部所から重大なクレームが来ても、「俺は現場責任者じゃないんだから、そんなに細かいことはさっぱりわからん。ミスをしでかした作業者本人を問い詰めないといかんよ」などと平然と答えるという。  業績に関するような重要な情報については、自分の手元ですべて止めてしまい、部下にはまったく伝えようとしないらしい。その様子は、まるで我が子を自分の足元から決して出そうとしない、子育てペンギンのようだという。仮にも管理職であるから、机の上にパソコンは常備されているわけだが、使用するのはインターネットでプロゴルフ選手についての情報を調べる短い間だけであり、肝心なアプリケーションソフトは、何ひとつ操ることができなかった。勤務時間中はほとんど席から立ち上がらず、熱いお茶を飲みながら部下の動向をどうでもいいような目で眺めている。自分よりも上役の人間が、連絡を携えて訪ねてきたときだけは、慌てて席から立ち上がるのだという。権力志向がきわめて強く、他の企業の幹部や自社の社長などの有力者の名刺を机の上に並べて、暇さえあればそれを眺め回し、一人でにやけていることがよくあるという。秋本は井上からいわれのない叱責や嫌みをぶつけられることが多いらしい。彼にとっては、この上司も自分をストレスの捌け口に使っていたひとりであったのだろう。先ほどの異様に口うるさい女性と異なる点は、この男が自らを遥か頭上から見下せる身分を持っていることであり、「いざとなったら、ぶち切れたフリをして言い返してやろうか」などという、最終防御線においての心理的バリアさえ張れないところにあった。  しかし、不況下のこの厳しい社会において、他に行き場所のない彼は耐える他なかった。このくだらない上司の存在を、自分よりも明らかに小さな人間なのだという、自意識の下に押さえ付けることにより、その小言をあからさまに無視したり、反論したりなどという行動には出ないで済んだのだという。
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