梟(ふくろう) 第三話

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梟(ふくろう) 第三話

 新人社員の殺害に関する容疑で、警察から取り調べを受ける際、秋本は刑事の質問に素直に応じていた。一般に、殺人事件後の聞き込みで、凶悪犯罪者の周囲にいた人々は、記者からのインタビューに対して「無口で大人しくて、とても礼儀正しい人だったのに」と判を押したように答えるが、捜査員たちは、今回の秋本容疑者の一件に対しても、ほぼ同様の感想を持たざるを得なかった。時折、上の空になることはあったが、刑事が女性を殺害するに至った、主たる要因と殺害方法をなんとか聞き出してやろうと、最初は親しみをもって語りかけ、要所では彼に不利な事実を突きつけ、声を荒げて鋭く追求した。だが、彼の返事は無関係の一般人よりも、さらに力なく、淡々としていた。長時間に及ぶ取り調べに、少し退屈そうではあったが、必要以上に反発したり、話を別な方向に向けて、ごまかそうとする素振りはなかった。彼は終始感情的にはならず、不自然に目を逸らすことも、声色を変えることもなく、冷静な口調で回答を続けることができた。  入社したばかりの女性社員の首を(何らかの方法により自宅に侵入した後に)絞殺した上、その遺体を山中に運び埋めるという凄惨なこの事件の容疑者とは、とても思えなかった。彼の口から出る、その平々凡々な言葉の中には、思いがけないトリックも、こちらを欺こうとする狡猾さも、邪鬼の腸の底に眠る暗さでさえも、隠し持っているようには思えなかったのである。捜査側の巧妙な誘導により、事件の動機につながりそうな案件を引き出そうとしてみても、彼は自分から進んで、そういった種の話をすることさえあった。特に『他人への恨み』については、長期間にわたり執着する特性を持っていた。記憶力のいい人間とは言い難いが、「自分は人から受けた恩義は、可能な限り記憶に留めるが、他人の不作法や悪意により、この心につけられた傷のことも、決して忘れようがない」とも語った。自分を褒めてくれた人、または、弱っているときに手助けしてくれた人への恩は、どんなに時が経っても忘れないと、そう表現したのだが、それは逆もまた真なりであると、強く示していた。この特性は突き詰めていけば、他人を害する動機にも結びつきそうに思えた。幼少の頃から、愚鈍であった彼の行動を、常に嘲笑ってきた、世の多くの常識人たちには当て嵌まろうとも、実際に殺害されたのは、入社したての純朴な女性社員であり、決して持ち得ない条件のひとつなのだ。秋本との対話をするたびに、この男の持つ、一般とはややかけ離れた特性、その鈍く光る破片の数々を、労せずに集めることができた。しかし、それらのパーツは、この殺害事件の動機という範図の上において、まったく組み合わさることがなかったのである。  秋本という男は周辺の人間たちの言葉を借りると、社会道徳には無頓着でずぼらな男らしい。同期や直属の上司のみならず、取り引きの営業マンや官公庁の広報担当、または、直接は関連のないはずの、同ビルの掃除夫などからも、似たような証言が得られた。入社したての二十代の頃は、平均程度には会社のルールに従いながら、真面目に働く姿も見られたらしいのだが、三十代も半ばに入ってからは、生活態度が目に見えて乱れるようになった。休日は家に籠りっきりで、テレビゲームに興じ、風呂やゴミ出しでさえも怠るようになった。その上、昼間から大酒を飲むようになり、ギャンブル以外の悪徳にはほとんど手を染めていたようである。社内においては、まず、上司や来客に対しての挨拶が見られなくなった。何日も洗濯を怠り、悪臭を放つYシャツを着て出社して来たり、翌日に早朝からの会議が予定されているにも関わらず、当日の明け方まで海外サッカーの中継を見ているなど、どうでもいい理由での遅刻や欠勤が目立つようになった。その点について、上司から厳しく指摘されることも多くなった。しかし、反省を見せる素振りはなく、反駁するような態度すら見せるようになると、上司も近い席に座る同僚も、次第に良心による忠告など、与えなくなった。  遅刻や仕事のさぼりなどの悪癖は、中年層労働者の弛んだ心に生えてくるカビのようなもので、風呂場のそれと同じく、一度身についてしまうと、なかなか拭い去れないものである。それがいつ自分の身体の一部になったのかを、本人すら忘れていることも多い。自分の社会的義務の一部を省くことで、少しの余裕を得たことによって、ほんのわずかな悦楽を味わってしまった経験が、過去のいずれかの時点において、必ず存在したはずである。秋本は上司や親族などから、どんなに叱責されても、それを反省することはなく、遅刻やさぼり癖を改めようとはしなかった。四十代に入ると、彼の評判は地に落ちていた。  同僚たちへの事情聴取によると、この年の春先までは、三日に一度の割合で、必ず遅刻していたという。無断欠勤にも関わらず、夕方近くになるまで、会社への連絡がなかったことも度々あったらしい。被疑者はこの件について、「一度、電話を入れるタイミングを逃してしまうと、その後は上司と会話をしにくくなる」と説明した。まったく理解できない理由ではないが、この発言は、ひとりの社会人としての心構えとしては、受け入れがたいと評する企業幹部の方が多いのではないだろうか。大遅刻をしでかした後のふてぶてしい態度、また、数日間無断欠勤した日以降の態度についても、同僚らは口を揃えて、「表情も態度も至極平然としていて、やってしまったことへの後悔の念や謝罪の意思が感じられたことは一度もなかった」と証言している。  ところが、この皆川という女性が入社してからは、パタッと遅刻をしなくなり、そればかりか、始業の三十分以上も前には職場に現れるようになった。秋本は取り調べにおいて、この変わり身について問われると、皆川さんよりも早く出社していれば、彼女が入室してきて、自分の机の前を横切るときに、ちょこんと頭を下げて挨拶をしてくれるからだと供述した。遅れてくれば、朝の出会いはなくなる。それはバカげた失態であると。その小さなイベントは、彼にとって憂鬱に染まった会社の一日が始まる直前の、ほんの少しの安らぎであったのかもしれない。  皆川の入社から、夜遅くに彼女が自宅で殺害されたとされる日まで、秋本は数回に渡り、これまでの社会生活では経験したこともない、強い感情の高ぶり、それは自意識が途切れるほどのものであったが、異常心理ともとれる状態に陥ったと供述している。ある種の錯乱状態にも近いそれは、小学校低学年時に体験した初恋の衝動に近いものであったらしい。自意識を通すことなく、むくむくと湧き出るその想いは、断続的に彼の思考を遮り、容易には抜けられなくなるほどの異様な高揚感と意識の混濁に苦しめられた。これほどの異常心理は、かつて味わったことはないと強調した。「その叶わぬ想いが、ある程度の時間を経て成長していく過程で、彼女への殺意に変化していったのではないか」と問われると、秋本容疑者は頑なにそれを否定するのだった。そのような強烈な高揚感は、充実感には変われど、恨みへと変貌することは決してなく、あるとき、不意に消え去っても、再びそれを心に思い浮かべたいという願望に生まれ変わると言い張る。受付で彼女と出会ったその日から、魔の巣窟であったはずの会社へ出勤することを厭わなくなり、反対にそれが楽しみに変わったのだと述懐するのだ。それは皆川という稀有な存在を愛欲の相手としてではなく、自分にとっては貴重なひとりの同僚として、いつしか対話が生まれ、温かく触れ合う機会を増やしていくという願望を維持する試みであった。  ひとたび休み時間に入ると、秋本は彼女の姿を探すように社内を散策するようになった。彼と皆川の机の位置取りは距離にすれば十メートルほど離れており、存在理由の不明な、枯れかけた観葉植物や、誰の目にも留まることのない去年のカレンダーや、詳細な勤務日程表が貼られた敷居に遮られていて、自分の椅子に座ったままの姿勢では、彼女の姿を覗き見ることは難しかった。自然な流れを装いつつ、彼女のすぐ傍までいくには、たとえば、コピーを取りにいくとか、上司に書類を提出しにいく際に遠回りをするとか、何か別の口実が必要となる。自然な行動を装う必要があるのは、尾上を始めとする部内のうるさいやじ馬たちに、純情な自分の心を悟られないためであるという。五月十日には皆川がフロアの中央において、井上課長の横に立ち、我が部所の新入社員として紹介された。彼女は極度の緊張をその態度で表しつつも、甲斐甲斐しく自己紹介をした。他の社員がそれに対して大拍手を返した際も、秋本は自分の意に反して、「入りたての新人などには、さして興味はないぞ」という冷静な態度を、周囲に示さなければならなかった。  ―― 秋本容疑者の身を捜査員が勾留してから丸一ヵ月。動機の解明を主目的にしている警察組織は、彼の勤務態度や交友関係にも踏み込んで操作を続けていた。私が大学同期の旧友の呼び出しを受けたのは、とある日曜の正午過ぎのことだった。 「すまんが、今から少し時間を空けて欲しい。君に要望がある。こちらの要件を話すのに、一時間とはかからないだろう。街のありふれた喫茶店で、ひとりの私人として会いたい。こちらの組織の節操のなさをよく存じている君なら、指定した場所まで、なるべく目立たない格好で来てくれることを信じている」  自宅に引きこもって学術論文を書くことしか能のない私に、今さら派手な格好など出来るはずもない。まともな学者には大金と社交的な態度は必要ないからである。たまに編集者に呼び出される際に着ていくための、茶色の古いブレザーを羽織って、目的地へと出かけた。指定の喫茶店は外部にメニューや看板が一切なく、ひどく閑散としていた。私は一度、ウィンドウの前を通り過ぎる素振りをしてから、付けてもいない腕時計に目を移し、「まだ、目的の映画の上映までには時間の余裕があるな」という表情をして見せてから、店内に入った。周囲にはこちらを伺う者は存在していないと固く信じていたが、こういう不毛な用心は、何の足しにもならなくとも、決して無駄ではないことも知っていた。  彼はすでに店内の奥の席に陣取っていて、雑多な最新商品の数々が紹介されていて、便利には思えるが、決して売れ線にはなり得ない、安っぽい週刊誌をひどく退屈そうに捲っていた。私は彼の正面の席を軽く指さして、同意を求める仕草をしてから、その椅子に座った。事あるごとに顔を合わせる我々は、しばらくの沈黙を守った。周囲に居座る数人の客たちが、この風景をどの街においても見られる、日常のものであると、すんなり受け入れるまで。時折、本を眺め、時折、窓の外を眺めながら、短時間で行き過ぎるはずの客のひとりを演じた。まるで、この店で初めて顔を合わせた赤の他人同士のように。  他の客との間合いは充分であった。やがて、さりげなく呟かれる独り言のように、しかし、正面に座る私にだけはよく聴こえる声で、彼は話し始めた。それは今度の事件のこと。「最初に事情を知ったときは、難題とは思えなかった」という出だしであった。今のところ、世間に対しては、ひとりの女性が失踪したとだけ報じられている、今回の殺人事件のこと。普段は無口で交友範囲も狭い、秋本という名の、ごくありきたりな容疑者。そして、彼により殺害されたとされる、今春、同社に入社したての皆川という女性の説明。その中には、大手新聞はもちろん、衆目を集める事件が一度起きたなら、誌面が埋まるまでは、あること無いことの両方を平気で書き立てる三流週刊誌でさえ、まだ、思い描いてもいない情報も含まれていた。話し終えると、温かい紅茶で喉をうるおし、一服してから、彼は私に説明を求めた。そちらの意見を聴かせて欲しいと尋ねてきたわけだ。当然のことながら、これは「このままではまずいので、手を貸して欲しい」という意趣を含んでいるのだろう。 「動機の判明しない事件など、古代から腐るほどある。切り裂きジャックを説明してみせた研究者だって未だに存在しない。被害者に若い女性が絡んでいれば、なおさらだ。単純にわいせつ目的、男としての弱点を指摘され感情的になり反射的に首を……、あるいは、他人には表面上は示していないが、幼い頃から人殺しという行為に強い関心を持っていた、などでもいい。「被疑者に動機がみえませんので、迷宮入りさせます」では、大衆が納得するはずはない。もっと言ってしまえば、刑事訴追するために明確な動機など必要ない。当夜の状況からして、奴以外には彼女を殺しえない、という状況証拠の積み重ねでもどうにかなる」  私はこれまでの彼の説明を脳裏で巡らせながら、『容疑者が初めて会った頃に、その新入社員を見染めており、しかも、彼女の遺体が埋められていた場所を知っていた』となれば、捜査班が容疑者を自白に追い込むことは、さほど難しくはないように思えるとの指摘をした。死体遺棄現場について、被疑者がどの程度具体的に話したかをこちらが知らないと、具体的な勝算を示すことは難しいが、逆にいえば、『被疑者が事件当夜に被害者と一緒にいた人物のひとりであること』が明確であり、さらに、死体が遺棄されていることを供述していること。つまり、彼女がまだ行方不明とされていた時点において、『誰かに殺されていることをすでに知っていた』という二点において、外堀は埋まっているのではないかとの指摘をした。まあ、我が国の裁判長にそこまでの分別があるかどうかは別として、裁判所や弁護団が一致協力した上で、彼を無罪放免にまで導くのは、ひどく困難なことに思えた。警察側により、容疑の内訳をここまで詳しく指摘されておきながら、これを潔白状態にまでひっくり返すためには、世間が大仰天するような、新しい道筋の説明をつけなければならない。少なくとも、これが他殺であることが明確である以上は、第三の重要関係者の存在が絶対に必要となる。日常生活からして不可思議なこの男が、殺害の主犯格ではなく、実際には共犯ではないかという説に、弁護側が導いていくことすら困難に思えた。何しろ、これまでの話を聞く限り、この秋本という男は、自分や同僚のプライバシーや、周りの人間との関係性や、同僚に対する自分の好意や悪意についてまで、捜査関係者にべらべらとしゃべりまくっているわけである……。口の軽い被疑者の首には必ず縄が巻きつく。これは常識である。 「奴の口から出てきた情報を総ざらいあたっていくと、職場の人間のほとんどを忌み嫌っていながら、ほとんど、口を利いたこともない被害者の存在を唯一の女神のように尊敬していた。まあ、外面と行動が裏腹なのは犯罪者の常なので、それについては大したことではない。内心については、こっちでもでっちあげられるわけだからな。自分は社会の隅にまで追い詰めている人間であり、関連もない人を逆恨みして刺し殺したのなら、ある程度の納得はいく。しかし、今回の場合は……」  これまでの情報を素早く頭の中で総括した上で、我が国が経済戦争に敗れた後の、この厳しい社会において、あのような容量の悪い男が、『生まれて初めて信頼するに足る女性と出会い、我々の知らない経過を経て、その人に裏切られたと思い込み、激しい口論に発展し、その挙句に激情して殺害にまで至った』などという事件は、たとえ、それがどんなに短期間に推移した出来事であれ、十二分に起こり得る、彼の耳に告げた。秋本という男の本性が、ボンナイフや草刈り鎌すら手にしたことがないような、虫も殺せぬほど臆病で慎ましい男であると、周囲の誰もが証言したとしても、日常の評価をすべてひっくり返すほどの衝撃的犯罪は、さして珍しくもなく、その程度の殺害事件は、今や不可解でも何でもなく、この疎ましいご時世においては遺憾ながら増えている。そのことを何よりも存じ上げているのは、普段からそういった問題に徹底的に向き合っている君自身ではないかとも告げた。  しかし、私に一定の信頼を置いたうえで、この街まで訪ねてきた旧友は、首を縦には振らないのだった。君の方で、もう少し奴の心理状態の推移を洗って欲しいと繰り返すだけである。身じろぎひとつしない彼の態度は、警察という管理機構が持つ真剣さと冷淡さと難解さを併せ持つ。たとえば、「君は死刑になるだろう」と、取り調べ室で言い放つ際に、このような涼しい表情が必要とされるわけだ。しかしながら、自分の握る情報のすべてを漏らした上で、ほとんど関連のない人間にまで助力を強いるこの姿勢は、何か衆目を引く事件が起こった際には、証拠なしであろうが別件であろうが、とにかく被疑者を独房まで連行してやり、その99%を有罪へと追い込んでいく、我が国の警察組織のやり口のひとつとは、とても思えなかった。これまでに挙げられたいくつかの憶測に、真実は適合しているのか、それとも、そのすべてが的外れなのか。  私は彼の顔に滲んできた苦渋の後を見て、ようやく、この事件に関わることを躊躇する気持ちが湧いてきた。秋本が補導されてから、すでに一ヵ月以上が経過している。警察組織なら、その間に当夜の心理状態だろうが、交友範囲だろうが、家族でも見たこともない日々の行ないであろうが、そのすべてを調べ尽くしているはずである。その多数の情報を混ぜ合わせつつ、試行錯誤を尽くした上で、それでもなお、この私を訪ねてきているのだ。事前に彼から手渡された書類を、テーブルから拾い上げて、それにもう一度目を移した。眼前の友人は、この被疑者を調べれば調べるほど、供述させればさせるほどに、『警察にとって不利な』要素が出てきてしまうのだと、そう主張しているのではないだろうか?  
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