梟(ふくろう) 第五話

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梟(ふくろう) 第五話

 太田がリーダーシップを発揮して、新入社員のための恒例の歓迎会が、翌週の二十三日に執り行われることが決定した。この職場に新人が配属されるのは、三年ぶりのことであり、誰の思いにおいても、歓迎の意を示すことは、ほぼ決定事項であったろう。秋本にとっても、最も楽しみにしていたイベントのひとつが、徐々に近づいてきたことになる。日常の業務においては、皆川の傍には理由もなく接近することはできない。小心すぎる彼にとって、それは当然である。この一大イベントは、目的の彼女と自然と対話する可能性が生まれる、唯一のチャンスであった。  しかし、彼の頭を悩ませる難題があった。それは、この部署に配属されてからの十年間というもの、ほとんどの歓送会を、何の理由も告げずに欠席してきた過去についてである。流行りの歌はろくに歌えない、上司へのおべっかはごめん被りたい、それに加えて、酒の上の会話では、他人の興味を惹くような話題をひとつも持ち得ない彼にとって、大人数が騒々しく集まり、酒の力によって、普段以上に盛り上がることが必然の場というのは、嫌な空気を醸すことが確定的である。自分が新卒の頃から付き合いがあり、長年にわたりお世話になってきた先輩の送迎会でさえ、道の先の黒い罠を見据えて、とっさに方向を変える野兎のように、参加を頑なに断り続けてきた歴史があった。それほど職場のイベントに非協力的であった男が、今回の新入社員歓迎会にだけ、態度を変えて、嬉々として参加してきたなら、これは明らかに異変といえる。勘の鋭い同僚の揃うこの部所の連中から、『あの男は、図々しくも皆川さんが目当てなのではないか』と、疑われるのではないかと、そのことを極度に恐れていたという。説明を試みると、このような卑屈な性質の人間にとって、自分の遥か天空に見据えたような儚い願望を、他人に知られてしまうことは、もっとも避けたい愚行なのだと、思えたのかも知れない。  これは、アイドル歌手志願の女学生が、家族や友人にひた隠す形で、カラオケボックスに夜な夜な通い詰めたり、俳優志願の美形青年が、学業卒業後に電話番号や戸籍まで変え、もう誰からも連絡が来ることはなくなるように仕向け、過去の因縁の影が背後に迫らぬことを確信してから上京を敢行。その上で、都心の俳優スクールに手書きの履歴書を意気揚々と持ち込むのと似ている。人生における大勝負に臨むには、過去の因果を完全に断ち切ってからだと、そう思い込んでいる若者は、いつの時代にも少なからずいるが、その割合は、こちらの想定よりも、かなり多いようだ。ただ、本当の意味では退路を断つ決心など、できてはいなかったと、彼ら自身が徐々に気付かされるのは、大抵の場合、三十も半ばを過ぎてから、疲労と屈辱と苦痛に我慢しながら続けていたバイトをようやく辞め、崩れかけの安アパートを引き払い、色染めですっかり傷んだ髪を、再び黒く染め直す頃合いになってからである。無謀な挑戦を自分の覚悟や本気だけで叶うレベルにまで引き上げられると思い違いすることは、若気の至りや精神の未熟という、ふたつの冷酷な宣告のみで、ほぼ言い表せるだろう。  この日は四月十九日。だが、午後三時をまわっても、他の社員は誰しも彼に対して、歓迎会への参加意思の有無を尋ねてこないのだった。秋本はどうせ不参加であろう、それなら、こちらが不愉快になるだけなので、尋ねても無駄だと、当然のように無視されているかも知れないと焦っていた。だが、午後四時の休憩時間になって、九官鳥女こと尾上が、いつものように大した意思もなく彷徨い歩いてきた。少しの雑談の際に、「そういえば、秋本さんは歓迎会には出ないの?」と軽い口調で聞いてきた。この時点では彼女の気楽そうな顔に、深い思惑を感じ取ることはできなかった。この程度のほんの軽い誘いに反応して、「もちろん、参加しますとも」などと、ほいほいと乗るわけにはいかない。その先にある罠の程度も判明していない。そこで彼は「別に……、まだ時間の猶予はあるし、決めていないんです」と、さして興味も無さげな態度により答える他はなかった。尾上も、「ああ、そう」とだけ反応して、それ以上の誘いはなかった。歓迎会への出否の締め切りは、二十日までなので、それまでには、どういう手段を取るにしても、実は自分も参加したいのだという意思を鮮明にしなくてはならない。それも、皆川さんへの想いについて、同僚の誰にも、それとなく悟られないような自然な態度において、である。根が不器用な秋本には、良策が思い浮かばず、内心はひどく焦っていたという。  この日は終業間近になって、思いもかけないことが起きた。朝から、新入社員の皆川と同じフロアで勤務することができ、彼女が正式に同僚になったということを強く意識することができたという。彼は皆川が新しい環境に取り組み、時折戸惑いを見せながらも、張りきって仕事をしている姿を眺めて、微笑ましく思っていた。ところが、午後四時過ぎになって、何の前触れもなく、彼女の方から秋本の席の方に、おずおずと近寄ってきたのだという。望外の僥倖にひどく動揺することになる。「あなたの存在が、ずっと気になっているんです」という、その秘めた想いを顔に出すわけにはいかなかった。彼女は秋本の眼前まで迫ると、突然、「申し訳ありませんでした」とひと声あげてから頭を下げたという。その後、よくよく話を聞いてみると、新人の仕事覚えの一環として、ここ数日の間は、部内の文房具の発注作業を勤めていたらしいのだが、秋本と他数名が一週間ほど前に提出しておいた業務部への発注書を、提出することを失念してしまい、そのために、彼が頼んでおいたカラーの付箋と三色ボールペンの二種が、今週中には業者から届かない事態になったらしい。ボールペンが手元に一本届かなくなったとう、新人にはありがちなミスに対して、烈火のごとく怒りだす社員もいないとは思うのだが、いったい、何に脅えているのか、彼女は脅えた様子を崩さず、何度も何度も頭を下げてそれついての謝罪を繰り返した。思えば、社会人になってまだ数日である。自分の為したことが、果たして、どのくらいの落ち度なのかも判別できないほどの緊張にあるのだろう。秋本は彼女の謝罪の言葉をそこで遮ると、ここぞとばかりに、優しい声で話しかけた。 「いいかい、いいかい、そんなつまらないことで謝らなくていいんだよ」  石像のように固まる彼女からの返事は期待できないと考えたのか、とっさに思い浮かんだ、もうひと言をそれに付け加えたらしい。 「それと、社会人になったなら、人との関係で、そんなに簡単に頭を下げてはダメだよ。君の低い態度を見て、つけあがる連中もいるからね。つまり、さらなるトラブルを呼び寄せることにも、なり兼ねないんだ……」  新人皆川は、とても聴き取れぬほどの小さな声で「はい、はい、そうでしたか……」と礼儀正しく頷きながら、彼の語りを聞いていた。 「だからね、いい? 顧客からクレームを受けたのならともかく、同僚の文房具の発注をいくらか間違えたくらいで、そんなに頭を下げることはない。だいたい、僕は管理職でもない。君と同じ立場の同僚なんだ。僕だって長年勤めていながら、いまだに、つまらないミスをするわけだし、今度は君に迷惑をかける立場になるのかもしれない。だからね、そんなに恐縮することはないから、これからも何かあったら、気軽に相談に来てよ、ね?」  見染めた女性と初めて話すにあたって、これほど気の効いた言葉も、なかなかないだろうと、内心では自画自賛であったらしい。皆川は彼の言葉にすっかり陶酔してしまっているように見えたという。それは、ミスを犯したにも関わらず、何の叱責もなく、許してもらえたことに感極まっていたことによる。今にも泣き出しそうな表情にさえ見えたのだという。ただ、それらは全て、秋本の目を通した印象に過ぎない。小さなミスを誤魔化そうとはせず、素直に謝罪に訪れた彼女の純粋さにも、秋本はまた大きく心を動かされた。思えば、彼の周囲にいるのは、勤務中にも関わらず、携帯電話で余計なお喋りをしていたり、平然と仕事の手を休め、手鏡に見とれて化粧をしたり、他の職場の人間を呼びつけて、どうでもいい会話を楽しむことだけに熱中するような、くだらない女ばかりいたわけだ。この無法地帯に、皆川さんのような慎ましい女性が多く存在していたなら、この俺の傷つきやすい心が、どれだけ救われるかわからないのに……と、彼は取調室において、悔しそうに供述した。  彼は皆川と話したこの夜、自分がやり遂げた大戦果によって、すっかり興奮してしまい、瞳孔が深夜を迎えても開ききり、眠れなくなったという。眠りにつこうとしても、頭の中には皆川が自分に平謝りしている姿が、繰り返し浮かんできてしまい、胸は高鳴り、額が自然と熱くなり、気持ちが落ち着かなかった。正確に言えば、この日から、彼が皆川を殺害するまでの数日間は、ずっと同じような状況が続いていた。眠りの質が極端に悪かったとの供述がある。自分を救うはずの女神と、その光輝の存在によりかき乱される感情との葛藤が起こっている。どうしても目が冴えてしまうときは、まっさらな大学ノートを開き、そこに、濃い鉛筆で「皆川さん、皆川さん、皆川さん」と数十ページにも渡って書きつけていき、数百行もの同語反復を続けることで、何とか気持ちを落ち着けてから布団に入ったという。この作業自体には、妄想を鎮める力はそれほどないと思われる。ただ、身体と脳の一部をひたすら動かしていることで、徐々に理性が回復していくことを期待していたらしい。たとえば、今まさに噴煙を上げる火口の淵に立ち、巨大な氷の塊を次々と投げ込んでいくようなものである。氷がどれほど大きく冷たかろうと、火山の噴火を鎮める力は持っていない。だが、氷を投げ込んでいる人の気持ちだけは、救われるかもしれない。「少なくとも、自分だけは解決しようとしているのだ」と。この単純な作業を毎夜続けることによって、この狂おしい期間内も、最低限の睡眠を確保していたと供述している。  話は少し前後するが、皆川が仕事上の小さなミスに気を咎め、謝罪に来た折り、秋本の側から別れしなに「太田は恐ろしい男だから、向こうから近づいてきたら、とにかく、気をつけてね」と、さりげなく声をかけたらしい。刑事はこの言動について、幾分かの不自然さを感じた。他人のへの評価については、人それぞれあるだろうが、秋本と皆川については、おそらく、この日初めて会話を交わした仲であり、そのような忠告をする関係性とは考えにくかった。そこで一度供述を止めさせ、「なぜ、わざわざ、そのような形で注意を促したのか」と問いをかけた。秋本は彼女を自分の手で守りたいがあまり、心中から自然と湧き出てきた台詞である、と答えた。さらに突っ込んで質問されると、彼の記憶の底に敢然と存在するふたつめの暗き事件、『元同僚によるホーム転落事故』について語りだした。 『刑事さん、よく聞いていなさいよ。この話は自分にとって、無実の証明になるはずです。どう考えても、彼女を殺したのは僕じゃない、もっと言えば、太田の奴こそ、殺人鬼なんです』  これから自分で説明しようとすることに、いっそうの説得力を持たせようと、大きく目を見開き、力強い口調で被疑者はそう語った。その話によれば、三年前の秋、この会社の当時の新入社員であった塚本という男性が、同じ部所の数名の同僚と飲み歩いたその帰りに、最寄りの駅のホームで電車を待っている間に、気分が悪くなり、意識が混濁したのか、誰も予期せぬタイミングでふらついたあげくに、ホーム上から転落した。その直後、駅のホーム前へ侵入してきた列車に跳ねられて即死した一件についてであった。秋本容疑者からの訴えを受けて、警察の方でも、当時の記録を詳しく洗ってみたところ、確かにそれに類する事故は起きていたのだが、事故の主たる原因は転落した塚本本人の過失となっていた。彼を轢く羽目になった列車の運転手からも、「列車の先頭車両が、すでにホームに侵入している時機において、ひとりの男性が他の乗客との接触なしに、線路へと落下した」とあり、避けようのなかった旨の証言が為されている。つまり、これは完全な事故である。  秋本が自分を弁護するための事例として主張しているこの落下事件というのは、死亡した男性の直属の先輩であった、太田と佐々木の両名が、新入社員の塚本が早く職場に馴染めるようにと気を使い、勤務後に飲みに誘い、繁華街へと連れ出したことが発端になっている。三人は二時間余りに渡り、社員行きつけの飲み屋において、ビールや焼酎を四、五杯程度飲んだという。先輩ふたりは、その後、もう一件、別の店に立ち寄ることにしたため、すっかり酔いの回っていた塚本をひとりで駅へ向かわせたという。だが、この直後、彼は駅のホームで体調を崩し、前後不覚に陥った挙句、ホームから転落し、その身体は上り電車とホームとの間に挟み込まれる形となって即死に至った。この事故の検証にあたった二名の警察官からの一報を受けて、太田と佐々木の両名は安置室に駆け付け、変わり果てた同僚の遺体と対面することになった。当然のことながら、両名とも、相当なショックを受けていて、まだ大量のアルコールを摂取することには、さほど慣れていなかった新人に深酒をさせたことを、深く後悔している様子であったという。もちろん、この一件は、翌日以降、会社全体でも大問題として取り上げられ、上司からの激しい叱責の言葉を受け、塚本の両親への事後連絡と謝罪についても、両名で行ったのだという。  新入社員を仕事終わりに連れ出し、大量の酒を飲ませて、介添えもなくひとりで帰宅させたことは道義的にはよろしくない。しかし、『ホームから転落したことについては、塚本本人の過失であるから、太田が塚本を直接的に殺したことにはならないのでは』誰もがそう考える。捜査刑事も同じような判断により、被疑者に尋ねてみた。すると、秋本容疑者は顔を紅潮させて反論した。「それは違う。太田が彼を意図的に殺したんだ。太田は塚本を殺す目的を持ち、駅の近くの飲み屋に連れ出した。その上で長時間酒を飲ませ、後ろから忍び寄り、他の乗客の隙を突いて、塚本の背中を押して、ホームから転落させたんだ」などと、今度は人が違ったように金切声をあげ始めた。  もちろん、秋本自身はこの事故現場にはいなかったはずである。後日、彼が詳しい事故原因を調べていたり、上司や当事者のところに問いかけにいった様子もないのである。それなのに、「なぜ、あの事件が特定の人物が意図的に引き起こしたものだとわかるのか」と、刑事が続けて問うた。それに対して、秋本は「自分が会社から帰るときに、酔っぱらってふらつきながら歩く塚本の姿を見かけた。その数歩後方を、太田が付けるように歩いていた」と自信ありげに答えてみせたのだ。それは幻覚や人違いではないのか、本当に確かなことなのか、と問うと、「確かに、塚本の姿を見た。酔っていてふらふらしていた。今にも何かにぶつかりそうだった。正確にいえば、時間差はあったかもしれないが、太田も同じ駅に確かにいた。奴のことは見間違いようもない」と強い口調で答えてみせた。  では、事故現場のホームにおいて、太田が新人の塚本を、背後から突き落とすところを、君の目で直に見たわけではないのか、と問うてみると、「太田が殺したんですよ! 絶対そうに決まってる! あいつは新人のくせに態度が良くなかった塚本のことを、消し去ってやろうと、最初から決めていたんだ! 実に巧くやったもんだ!」と答えた。ただ、話の接ぎ穂はなく、その言葉により、自分の主張については、すべてを語り尽くしてしまったようだ。第三者を強く非難したことで、ある程度の満足感を得られたのかもしれない。聞き取りをしていた刑事は、続けざまにいくつかの質問を試みたが、時折、少し頷いたり、首を傾げる程度の反応に変わってしまった。刑事の繰り出す話題に興味や反応を示すような態度は一切見られなくなった。あとは数時間もの間、黙りこくってしまったという。これまで自分の心中に溜めていた思いのすべてを、捜査員にぶちまけ、それである程度の満足を得てしまったような態度とも思えた。
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