梟(ふくろう) 第六話

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梟(ふくろう) 第六話

 新入社員歓迎会の出否表明を示す期日である五月二十日を迎えた。自分の本意を知られない形で、この会の参加にこぎつけたい秋本としては、いったい、どのように立ち回れば、さりげなく参加表明ができるのかが未だにわからず、内心には相当な焦りと苛立ちが充満していたらしい。素直になれない自分の心を知る由もない皆川の表情を何度も覗き見ていたが、彼女はそんな焦る心に係り合う必要もなさげに、周りの席の女性社員との会話を楽しんでいた。配属されてから、まだ一週間にも満たないが、この頃になると、場の空気にすっかり打ち解けた様子も見せていたという。事態がようやく動き出したのは、この日の午後になってからである。秋本と比較的仲のよい佐々木という社員が、仕事の書類を届けに来たついでに、彼に雑談を仕掛けてきたのである。彼はどうやら、仕切り屋の太田の命で、歓迎会の幹事を仰せつかったらしい。 「よお、おまえ、来週の飲み会どうするのよ? 今回は来るんだろ? そろそろ出席人数を確定させないといけないんだよ。なるべく早いうちに店と連絡を取りたいからな」  どんな意図のある質問か分かりかねるが、秋本にとって、それは渡りに舟の問いかけである。飢える寸前の河魚であれば、ある程度の危険には目をつぶって、目の前に漂うルアーの鋭い針の先に結び付けられた餌に飛びつかざるを得ないこともあるだろう。先述のとおり、秋本という男は、社内のイベントには、とことん出無精な男である。この佐々木という男以外が幹事であったなら、出否を尋ねられること自体が、そもそもなかったのであろう。佐々木はよく気が回る、面倒見のいい男なので、秋本のような天邪鬼で世をすねた男にも声をかけてきたわけだ。 「やあ、お誘いはありがたいけど、今回も出席は見合わせるよ。俺がいっても、つまらない話しかできないし、どうせ、盛り上がらなくなるだけだろ? 太田がわざわざ盛り上げに来るんだろうし、存分にバカ騒いでくれるよ。俺が仏頂面をして座り込んでいるよりずっといい。みんなで楽しんできてくれよ」  秋本はわざと本来の気持ちと反対のことを言って、佐々木の気をこちらに向けようとした。この佐々木という男は年齢も比較的近く、秋本の数少ない理解者のひとりであるからだ。このフロアきっての気い使い屋である佐々木の同情心を巧く利用しようとしたわけだ。案の定、佐々木は心配そうな顔をして同情を込めた言葉をかけてきた。 「身体でも、どこか悪いのか? この職場に久しぶりに入った新入社員なんだぜ。席も割と近いだろ。今後、仕事の中でも関わり合いになるはずだ。おまえが出席しなかったら、皆川さんも変に思うよ。もし、うるさい太田が嫌なら、あいつと離れた席でふたりで飲もうじゃないか」  会のまとめ役の同僚に、ここまで言わせておいて、意固地に断ったなら、逆におかしいだろうという空気を作っておいてから、秋本は渋々に承諾するよう見せかけた。 「ありがとう、よく分かったよ。おまえがそこまで誘ってくれるなら、出ることにしよう。確かに、歓迎会は新人さんの前途を祝うものでもあるし、なるべくなら、多くの同僚が出席してお祝いを述べるべきだよな」  これ以上ない感謝の意を込めて、晴れ晴れとした表情で返事をすると、佐々木も安心したようで、最終的な参加人数を算出して、店側へと伝えるべく引き下がっていった。  秋本がこれによって最大の安心感を得て、この日から、自分の重荷にしかなっていない仕事については、ますます集中できなくなったことは言うまでもない。何しろ、新人の皆川とお近づきになるための最大の関門を突破することができたのだから。  ――刑事からは、「歓迎会への参加を承諾することが決まったこの日までは、彼女を殺害する意図は本当になかったのか?」と尋ねられた。秋本は「もちろんです、最初から最後までそんなつもりは一切生まれなかった。彼女が入社してからの毎日は、目も眩むほどの幸せの光でいっぱいだったのです」と確信をもって答えた。 「では、皆川という女性への悪意や殺意は、具体的にいうと、いつ頃から湧いてきたのか?」という重大な問いには、「今になっても、まったく、わかりません。彼女があの夜に、本当に殺されたのであれば、おそらく、自分には何らかの責任があるのでしょう。あの夜、皆川さんから一度も目を離さなかったのは、私だけのはずなので。つまり、自分が逮捕されるべきというのは分かります。なぜ、彼女が殺されることになったのかが、どうにも、分からないのです。私は彼女を生涯見守っていくつもりでした。尊敬と好意はどう変換しても殺意などに変わりません。これは確かです。心中に悪意が生まれる余地は、まったくありませんでした」と答えたという。  これまでの彼の供述がすべて真実であれば、という前提になるが、少なくとも、五月二十二日までは、つまり、歓迎会の前日の終業時までは、秋本に皆川という新入社員を殺害しなければならないほどの動機は皆無といえた。 ――私は警察署の取調室ではなく、拘置所の面会室において、彼との面談を希望した。秋本という男は夜が近づくと神経が荒ぶる傾向があるように思えたので、正午過ぎを選んで、私は拘置所を訪れた。狭く味気ない灰色の壁に囲まれた面会室に通されると、被疑者よりも先に、二名の刑事の姿が目に入った。彼らの左横の席に腰を掛けた。まず、私は大学病院から派遣されてきた精神科医師であると紹介された。検察側の証拠固めのための要員だと見破られてしまうと、疑り深い彼が答弁を拒む可能性が出てくるからだ。簡単な挨拶の後、彼は私の目を真剣に見つめて「自分の疑いを晴らすためであれば、どんなことでも話します」と述べた。それについて、私は「貴方への裁決がどうなるかは、あの夜に実際に起こったことと、貴方の証言との整合性がとれるかに因ります」と答えておいた。彼はふたりの刑事の方には一目もくれなかった。これまでのやり取りから、すでに、彼らは自分を助けようとする存在ではないと、見切りをつけていたのかもしれない。外見はどこにでもいそうな小太りの単純な男に見えた。あの事件からまだ一ヵ月ほどしか経っていないが、今のところ、無垢な女性を大した理由もなく殺害してみせた当事者にはとても見えなかった。しかし、その第一印象はそれとなく凡人にはない悪意や違和感をも漂わせていて、明らかに無罪潔白であるとこの段階で断言できそうにも思えなかった。  昨年の秋に富山県の田舎町で母親の年金をあてに引きこもり生活を続けていた三十代の男が、ある日突然に、その母の頭を金槌で打ち砕いて殺害する事件が起きて地元住民を震撼させた。その一ヵ月後には、千葉県の北西地域において、小学校帰りの児童ばかりを狙った四件もの通り魔事件(幸いにして、死者は出なかった)も起きている。その二件の被疑者とも面会を行ったが、受け答えも事件までの経緯の説明もしっかりとしていて、とても、重罪を犯して、全国的にその名の報道がなされ、これから裁判にかけられていく人間には見えなかった。そういう意味では、この秋本という男の印象も非常に似通っている。街でこれらの事件の被疑者と不意にすれ違ったとしても、その外見から特別な印象を呼び起こして警戒する人間は、おそらくいないだろう。  秋本は事件当日の出来事を話し始めた。先述のとおり、絞殺された皆川の首からは秋本の指紋は検出されなかった。これまでに集められた、周囲の同僚からの証言から考えても、この男が、当日の朝から、偏愛する女性を殺害するために、軍手や手袋の類いを、わざわざ用意していたとは、到底考えにくい。事件後の警察の捜査においても、結局は殺害に使用されたと思しき道具は、何も発見されなかった。歓迎会において、ふたりの関係がプラスに傾くかそれとも真逆なのか、この時点では想定できなかったはずなので、これは当然である。遺体を山中まで運ぶための車を事前に用意していたとも考えにくい。秋本という男がこの事件の主犯であると仮定する場合、遺体が発見された日時から逆算すれば、この歓迎会の夜にしか、彼女を殺害する機会はないはずである。研修を終えたばかりの新入社員の住所を人事課以外の一般社員が知ることは困難であるし、たとえ、それを掴んだとしても、住所という名の漢字と数字の羅列から、実際のマンションの一室にまでたどり着くのは、素人には至難である。  それに加えて、この夜以降に、被害者の自宅付近で怪しい男性を見たとの目撃証言も存在しない。つまり、この事件が秋本の単独犯行であることを立証するためには、この日一日の彼の心情の変化から、動機を見つけだす必要があった。ふたりの刑事は、この日の出来事で覚えていることは、なるべく詳しく話すように告げた。しかしながら、これから彼が話すことは、ここ一ヵ月の勾留期間の中で、何度となく供述させられた内容のはずである。彼が気分を害して拒む可能性も考えられた。しかし、私という新たな存在が証言の後押しになったのかも知れない。秋本容疑者は少しの間を置き、考えをまとめた後、ゆっくりとした口調で語り始めた。  「五月二十三日は朝から薄曇りの天候でした。有能なる民放の人気予報士によると、降水確率は約五十%。歓迎会に雨天中止の取り決めはありませんでした。しかし、嫌なタイミングで降り出すのではないかと、とにかく心配で、仕事の合間にさりげなく窓に寄り、何度も空模様を確認したくらいです。土砂降りの中をみんなで寄り添い合って、飲み屋まで移動する事態は、あまり好ましくないと思っていました。その日の職場の様子は、普段よりもずいぶんと賑やかに感じられました。全員が仕事終わりに待つ歓迎会を意識していたわけではないでしょうから、内心において、誰よりもその訪れに期待していた私だけが、そのように感じられただけなのかもしれません。普段ならあまり会話の輪に加わらないような人達も、それほど理由もなく声をかけ合い、何やら入り混じり、少人数でグループを作ると、昨日のスポーツの結果についてや、芸能人の結婚離婚話などの他愛もない話題で盛り上がっていたようです。  その中でも、やはり太田の聞き苦しい大声が目立っていて、距離的には離れているはずの私の耳にまで、よく届きました。「みんな、今日はあまり間食はするなよ。それくらいは分かってるよな? あとで美味しい食事が控えてるからね」などと、誰も頼んではいないのに、余計な愛想を振り撒いていたのです。まったく、うるさい男です。私自身は、歓迎会での自分のコメントをどうしようかと、そのことばかり考えていました。酒の席において、皆川さんとどう接するのか、ということと併せて考えているうちに、なぜか緊張していつも以上に孤独を感じてしまい、周囲の雑然とした雰囲気が、かえって疎ましく感じられたものです。当日にもなると、気分の高まりがピークに来てしまい、ありえない妄想に取り付かれていました。それは例えば、佐々木や尾上が必要以上に気を使って、自分と皆川さんを部屋の隅の方に追いやり、ふたりきりにしてくれるとか、悪い方の想像では、太田が嫌らしい顔で、皆川さんの隣に座り、しつこく言い寄って、何か良からぬことを企むのではないか、というものもありました。  自分にとっては、この歓迎会は非常に意義のあるイベントであり、これをみすみす逃してしまうと、もう後がないとさえ思えたのです。なぜって、私の社内での立場や器量では、これから皆川さんに笑顔で話しかけるチャンスは、簡単には訪れないと思えたからです。うちの会社の他のフロアには、今年入社した別の新人たちも配属されているはずです。その中には、太田などよりよっぽど若々しく凛々しい男性社員も含まれていることでしょう。今は目の前の仕事に追われていますが、勤務に重圧さえ感じなくなれば、皆川さんは、そういった魅力ある男性との恋愛を考えるようになるのかもしれません。そうなれば、明日以降は私と彼女との距離は開く一方になっていきます。今夜の一刻に、ある程度の良い印象を残しておく必要があったのです。今日の業務だけは集中して取り組み、間違っても残業になどならないようにする必要がありました」  時計の針が午後五時を指すと、どの社員も自分の書類や手荷物をそそくさと片付け、十分も経たないうちに、職場のあるフロアから消えてしまった。それはまるで、自身が仕事中に為した、何らかの後ろめたい事実から逃げ去るようでもあり、それはつまり、普段の動きと、さほど変わらなく見えたという。今夜の宴会を、己が人生の一大イベントとさえ考えている彼とは、相当な認識のズレがあったはずである。 「女性陣の多くは晴れ舞台を前に、入念に化粧でも施していたのでしょうが、さしたる用事があるとも思えない男どもの姿まで、あっという間に見えなくなりました。彼らが歓迎会開始までの数十分の間に、どこで何をして時間を潰していたのかは未だ不明です。会場は会社のすぐ近くにある『花市』という店と伝えられていました。私はその昔に、何度も連れていかれたことはあるはずなのですが、記憶は漠としていて、頭の地図の上に、具体的な場所を描けませんでした。たしか、徒歩で五分もかからぬ距離であったはずです。先に会社を飛び出すと、目的地が見つからず裏路地に踏み迷い、開場の時刻になっても、みんなと合流できない可能性があり、余計に居心地の悪い思いをします。ですから、ここは万全を期して、誰かの案内に付いていくのが賢明と判断しました。  所在なく、ロビーに降りていき、一人で外国文学の本を読みながら、他の参加者が通りがかるのを待ちました。花市まで案内して貰えるのなら、もう、贅沢は言いません。さして仲も良くない口の悪い後輩や、やかましい女ども、最悪の場合、あの九官鳥の尾上女史でも構わないとさえ思っていました。その間、今日の清楚な皆川さんの身なりなどを思い起こしながら、これから起こりうることとともに、とりとめもない想像を繰り返していました。それだけでも、今日一日の疲れが取れるような気がしたものです。  不意に脳裏をかすめたことがあります。もし、今夜の飲み会で、あの太田が主役である彼女に、嫌らしい顔をして言い寄っていく場面などあったら、自分がなんとかその間に入り、多少強引にでも、それを食い止めねばならないと思いました。皆川さんの話し相手としてつり合いが取れているのは、自分のようにきちんとした社会的ルールを備えている気高い男であって、決して太田のような、心底汚れきった、くだらない、毛虫のようにつまらない存在であってはならないのです。今日の会においては、奴は企画者らしいですが、私からすれば、どれほど高く見積もっても、ただの客寄せピエロに過ぎないのです。  正面扉の外を眺めると、ポツリポツリと雨粒が落ちてきました。不安は現実となりつつありました。それを見て、皆川さんは果たして傘を用意してきているのだろうかと心配になりました。飲み会が終わった後も降り続いていたなら、自分の傘を貸してあげた方が良いのかもしれません。恩着せがましくするのではなくて、彼女には、なるべくなら、今日の会をいい思い出として残して欲しかったのです。そんなことを考えていると、時計は五時半過ぎになり、私の目の前を友人の佐々木が悠然と通りがかりました。彼は独りでロビーに佇む私の姿を見て、意外そうな顔をしました。 「あれ、まだ、誰も来ないの? いったい、どこへ行っちまったんだろう?」  私は心中の焦りを伝えながら、その問いに頷きました。他の参加者は、すでに現地に向けて出発したのか、それとも、未だに暢気に構え、社内のどこかで時間をつぶしているのかが、まったく分からなかったからです。そこで、とりあえず、ふたりで花市の前まで行ってみることで同意しました。佐々木は私などよりずいぶんと社交的であり、普段から飲み会は断らない性分ですから、当然、今夜の会場の場所について詳しく知っていました。それとなく聞いてみますと、会場は会社からほとんど目と鼻の先だったのです。普段の通勤のルート上でもあり、ここを通行する際に気づいてもおかしくはないくらいの位置です。人の記憶と認識とは、やはり当てにならないものです。それほど焦る必要はなかったのかもしれません。  途中で、佐々木が余所の部所の課長が、何人か顔を出すかも知れないと言っていた記憶も微かにありますが、私はすっかり上の空だったので、悪いとは思いつつも、彼が投げてくる話にあまり集中してはいませんでした。実はこのとき、太田のことをずっと考えていました。深く考えれば考えるほどに、あいつは恐ろしい存在で、若い女を我欲のために食い物にするためなら、どんな卑怯な手を使ってくるか、読めないのです。皆川さんが、あいつの誘惑を懸命に拒絶して、なびくことはないでしょう。(上品で清純な彼女が、あんな単純なバカ男に簡単になびくわけはありませんが)すると、太田は逆上し、どんな行動に出てくるか、分かったものではありません。もしかすると、数年前の塚本のように、事故に見せかけて惨殺されてしまうかもしれないではないですか。そこで、ひとつ良いことを思いつきました。私の机の一番下の引き出しの奥に、前任者が置きっぱなしにしたと思われる、贈答用の食器セットが入っているのです。なぜ、新品の食器セットが職場に置いてあるのかはわかりません。それに、実際にこの目でそれを確認した自分以外にあれの存在を知っている同僚はいないはずです。たしか、あの箱の中に、数本の果物ナイフが入っていたはずです。太田が皆川さんに失礼なことをし始めたら、それを握りしめて、有無を言わさず、刺し殺してやろうと思いました。奴の反撃を許さぬために、意識を失うまで、何度も何度も急所を刺しておく必要があります。自分の手が握りしめる血みどろの熱いナイフが、太田の胸を何度も刺し貫いているところを想像して、ようやく心は平静を保ち、この場は何とか気持ちを落ち着けることが出来たのです。そのYシャツを真っ赤に染めて、奴が苦しみもがいているところを想像すると、嬉しくなるというか、自然と気分が高揚してくるような気がしました。  そんな夢想を重ねる中、誰の姿を見ることもなく、花市へと辿り着いてしまいました。時間は開始時間の十五分ほど前でした。参加者が揃うまで、店の中で待たせてもらうという手も良いかと思いました。隣にいた佐々木の語るところでは、この店の予約をとったのは企画者の太田であり、彼の名前で予約をとったので、ふたりきりの今は入りにくい。ここは外で皆が来るまで待っていよう、とのことでした。私はこの展開により、さらに苛立ってきました。自分で歓迎会を企画しておきながら、幹事は人の好い佐々木の方に押しつけて、自分の名前で店の予約をとるという行為は、面倒くさい部分だけを他人にやらせ、実の甘い部分を自分がすべて頂くという、奴の汚らしい本性のすべてを丸出しにするものです。太田は職場のみんなを喜ばせようとするために、あるいは、皆川さんを快く迎えるために、このイベントを思いついたわけではありません。ただ、格好つけて目立ちたいがための思いつきであったわけです。えっ、太田のその心理について、きちんとした根拠はあるのか、ですって? 刑事さん、他人の心理を追うことに証明なんて必要ないんです。あいつのやってきたことを、十年近くもこの目で見てきました。我が目を覆いたくなる行為ばかりでした。社会人というものはねえ、一事が万事なんです。ひとつの実際的な行為から、その人間の思惑のすべてが透けてしまうものなんです。ええ、一度汚いことをした奴は、それ以降、常に汚いことを画策する。私は今でもそう思っていますね。  宴会の開始時刻まで、あと五分、あと三分と迫ってきますと、少しずつ、職場の同僚たちが、その姿を見せました。遅れていることに気が咎める様子は、どの顔からも感じられません。すっかり気の抜けた、仕事終わりの顔で現れた男性陣のうちの何名かは、花市において、禁煙席に案内された際のことを考えて、開始前にタバコを一服してきた旨のことを語りました。しかし、歓迎会の開始時刻ぎりぎりになっても、太田はその姿を見せませんでした。店の前でたむろしていた参加者は、皆一様に、どうせ時間が足りなければ、延長するつもりだったのだからと、気楽に構えていたものです。でも、私の苛立ちはどんどんと募りました。太田がこの場にいようがいまいが、それはどうでも良いのです。みんなの前であいつの本性を暴き出し、罵倒してみせることが今宵の本来の目的ではないからです。まともな言葉も通じない別人種を相手にしているだけでは、こちらが疲れます。普段なら、頭ごなしに怒鳴りつけても足りませんが、今宵の私の悲願の前では、その存在はひどくぼやけていました。何より、肝心の皆川さんがその姿を見せなかったことによってです。しかし、予約した時刻がきたのに、外でうろうろとしているわけにもいきません。仕方なく、この場を代表して、幹事の佐々木が店内のスタッフに、ひと声かけて承諾を得る形になりました。  店の人は我々をこころよく中に通してくれました。奥の座敷の席に案内してくれました。案の定、まだ、太田やまだ姿の見えぬ数名は来ていませんでした。大きな横長の木の机の上には、すでに十六人分のおしぼりと、うつ伏せにされたガラスコップと白いナプキンが用意されていました。私と佐々木はその広い座敷の一番奥、壁際の席に陣取ることにしました。この選択が後にどのような展開を生むのか、期待と不安が入り混じりました。そういえば、みんなを待っていたこのとき、皆川さんはまだうら若いが、普段はアルコールを口にするのか、そして、体質的にはどの程度の酒量を飲めるか、という話をふたりでしていたと思います。佐々木は気の置けない存在でしたが、自分の真意を計られないように、少々冗談めかした口調で語ったのは、説明するまでもありません。今夜の会において、彼女にはあまりお酒を飲ませたくないと、本意では考えていました。それはもちろん、帰宅がおそらく深夜にかかり、人通りの少なくなるであろう、帰り道のことが不安になってきたからです。  ふたりでそんな話をしながら待っていると、それから数分の間に、次々とうちの社員が室内に入ってきました。私は皆川さんのことしか待っていませんでしたので、視界に映る井上課長や、他のどうでもいい、必要もない男性社員の顔を確認するたびに、ひどくがっかりしました。私の隣の方から、席は次々と埋まっていきました。本命の皆川さんの姿は、なかなか見られませんでした。やっと、六時を十五分ほど過ぎたところで、尾上と太田に連れられて、皆川さんが到着したのです。彼女は遠慮深そうに部屋の敷居をまたぎました。私の感情は急激に高ぶり、主役を遅刻させるとは、いったい、どういうつもりなのかと憤りましたが、誰も私の様子には気を払っていません。「今日はお祝いの席だから、楽しくやろうじゃないか」という佐々木の声に諌められて、落ち着きを取り戻すことができました。
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