梟(ふくろう) 第七話

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梟(ふくろう) 第七話

 程なくして、参加メンバーが全員揃いました。井上課長が音頭をとり、声を揃えて、まず乾杯をしました。結局、皆川さんはこちらから一番遠く離れた、店の入り口側の席に腰を降ろしてしまいました。課長の簡単な紹介が終わると、緊張した雰囲気がぱっと解けたように場が賑わいだしました。私は時折、首を伸ばして、皆川さんの方を確認しました。皆、いつも通りにバカな話で盛り上がり、酒を注ぎ合うことに夢中であり、こちらの本意に気づく者はありません。主賓の座る入り口付近では、酒にまったく慣れていない、純心な皆川さんに、太田が唇を醜く曲げながら、下品に笑い声をあげ、ビールをなみなみとついでいました。いくらお祝いの会だからといっても、初めて酒の席に参加する女性に対しては、限度を知らねばなりません。あいつはいつも通りに、すっかり悪のりしていました。みんなの雄叫びのような歓声に入り混じる形で、太田の獣のような笑い声が、私のところまで貫通してくるたびにストレスが募りました。  彼女を守り得る唯一の騎士(ナイト)であるこの私から、もっとも遠く離れた席に皆川さんは腰を据えてしまったのです。まったく理不尽な話ではないですか。太田の奴が繰り出す嫌らしい話題が、皆川さんを楽しませることなど出来るわけないじゃありませんか。彼女は根っから優しい子だし、人なつっこい性格だから、太田のような下品な男にも、あるいは、愛想笑いや相槌を打つのかもしれません。しかし、本心においては、あんな下心むき出しの男からは、なるべく離れていたいと思っているはずなんです。私はムキになって、一気に何杯かのジョッキを続けざまに呷りました。一時間も経つ頃には、かなりのアルコール量を胃に収めていたため、気分がすっかり高揚してしまいました。今夜の重大なイベントにおいては、他人に対して、自分の胸の内をなるべく隠秘しておくという当初の目的をすっかり忘れてしまい、なりふり構わず、皆川さんの方にばかり顔を向けては、彼女が小さな唇を動かして、身振り手振りを加えつつ、苦慮しながら何かを説明しようとしている様子を眺め、どうにかして、そのか細い声を聞き取ろうとしていました。  私のそういう不自然な素振りを見て、何かに勘づいたらしく、佐々木が正面の席から笑いかけてきました。 『おまえ、彼女が入社してからは、会社に来るのが、ずいぶんと楽しそうになったよな』  茶化すような態度で、彼は話しかけてきました。直感力に長けた男なので、こちらの本心に気づいていたのかもしれません。私はすでにアルコールにより、思考回路や意識をやられてしまっていました。その追及を慌てて打ち消すことさえできませんでした。この場での鋭い質問に対しては、もはや、聞こえていないフリをするしかなかったのです。その後、多少の冷静さが戻り、それまでの不自然な態度をごまかしてやろうと、井上部長や他の部員をも交えて、佐々木と最近の大相撲の勝敗について、氷河期世代の就職活動に大変苦労したこと、あるいは、それぞれの田舎(こきょう)での幼少期の頃について、いくらか会話を交わしたと思います。もちろん、どうでもいい話題には身が入らない性分なので、その会話の詳細については、ほとんど覚えていません。  みんながビールをジョッキ一杯ずつ飲み終えると、それを希望する者の多かった焼酎を追加で注文することになりました。店員の女性が両腕で抱くように、一升瓶を持ってきたので、私と佐々木とがそれを受け取る羽目になり、全員分のグラスに分けて注いでやることにしました。こんな配慮をする義理はまったくありませんでしたが、今夜は特別な集まりですし、友人により正面から表情や行動を見据えられていますと、良識のある態度を取らざるを得ない側面はあります。もちろん、声が大きくてうるさい太田や尾上のグラスは濃いめに、皆川さんのグラスは氷と多めの水で割って薄く作りました。太田のような野獣は、早いうちに酔い潰れ、終電の時刻も忘れて、都心の真ん中で野垂れ死ぬほどに、深い眠りへと落ちてしまえばいいと思ったのです。  この辺りで、職場の同僚がひとりずつ、彼女への挨拶も兼ねて自己紹介をすることにしました。一人ずつ、その場に立ち上がっての自己アピールです。私はかなり酔っていましたので、果たして、どんなことを話したのかを、よく覚えていません。おそらくは、賢そうで覚えの早そうな子だから、これからの仕事についても、きっと大丈夫だろうとか、勤務中に困ったことがあったなら、いつでも相談に来てくださいとか、色気を見せぬよう、当たり障りのない主張をしたのだと思います。最後に皆川さんがおもむろに立ち上がり、主賓の挨拶をしたわけです。『皆さんとお仲間になれて嬉しいです。今はただの役立たずですが、仕事のことも、もっとがんばって覚えていって、早く皆さんに追いつけるようにしたいです』と、そういう内容だったのを覚えています。彼女のその純朴な台詞だけが、悪徳の密教の集会と化していた、この宴席の場の唯一の救いともなり、彼女の言葉を直に聴くことが、今夜ここに来ることの最大の理由だった私には、この上ない僥倖であったわけです。願いはついに叶えられました。その聖なる言葉は、まるで、自分だけに向けられているようにさえ感じられたのです。  その頃までに、どのくらいの酒を飲んでいたかですって? 刑事さん、本当にそんなことが知りたいのですか? 単純そうな質問を繰り返していますが、いずれは、言い間違えるのを待って、私を陥れてやろうとしているんじゃないでしょうね。この夜に飲んだのは、ほんのビール三杯と焼酎二杯程度です。そんなもの、中年の会社員にとって、酔っているうちには入らないのです。私はあの夜、自分はずっと正しい認識や道徳観念を持って行動していたと誓って言えます。そのようなわかりきった質問で、この話を中断しないで頂きたいですね」  ――真偽も確かめようのないその長い説明を、一端遮る形で、私や刑事が核心を突いた質問をすると、秋本はいくらか気分を害した様子になり、そう答えるのだった。一見これは、自分を常に疑い、厳しい取り調べを続ける警察側への批判や挑発にも受けとれるが、彼の表情やその後の態度には、それほど熱くなったところは見受けられなかった。淡々と批判と反論を繰り出すだけ。刑事からきつい追及を受けると、スッと口をつぐんでしまう……。こういった硬軟織り交ぜた姿勢は、あるいは、初対面の相手と接する際の、秋本特有のリズムなのかもしれない。中央アフリカのサバンナや南米の大森林においても、他種族との出会いにおいて、友好的な態度や安全への逃亡という選択肢をとらずに、まずは威嚇から入る野生動物もいるという。こちらから、必要以上のきつい応対をしない限りは、長時間にわたる詰問において、彼の姿勢は、まずまず安定していたといえる。  「歓迎会が始まって、一時間半ほど過ぎた頃に、それまで周囲の同僚との会話に夢中だった佐々木が、こちらに顔を向け、急に寂しそうな声を出してきました。『なあ、皆川さんがさあ、こっちの席にも会いに来てくれるといいのにな。男同士で話してても、ちょっと、寂しいよな』と言いつつ、ちらっと目配せをしたのです。この頃の私の心情について、彼がどの程度までつかんでいたのか、その意図は分かりかねました。ふたりで皆川さんのいる席の辺りまで近寄ってみようと、こちらを誘っているのでしょうか。向こうは大輪の花火でも上げているのか、と思い違いするほどに盛り上がっているし、そのうちの数人はすでに正気を失っているようにも見えました。近くまで寄っていっても、私の平凡な話のネタに興味を持ってくれるとは、とても思えませんでした。自分が期待していた世界にいくぶん裏切られた気がしてきて、余計に寂しい思いをするに決まっています。皆川さんとの対話を太田に聴かれてしまうなど、とても同意はできませんでした。ただ、佐々木以上に主役と関われない寂しさを感じていたのは事実なので、一度だけ、彼女の方へ視線を移しました。皆川さんは尾上など酒の強いアラフォー女性の面々に取り囲まれながら、余計にペースを上げながら飲まされてしまっているようにも見えました。 『いや、若い人や女性同士で話をしていたほうが、楽しいに決まってるよ。これでいいんだよ』  少し考えた末に、そういう当たり障りのない返事をすることにしました。奥手の私であっても、皆川さんの傍まで寄ってそこに居座り、一緒に語り合いたいのは山々でした。しかし、その幸福の実現以上に重く考えたのは、太田や尾上に最低限の気を使いながら、酒を酌み交わさねばならぬ苦痛のことであり、それは幸福が折半されてしまうことと同じで、ひどく無益なことに思えたのです。この期に及んでも、私の小さな自尊心は、しっかりと生きていたのかもしれません。目の前にいる佐々木との対話も、その辺りで途切れました。とうに話題などなかったのですから当然です。佐々木の強引な提案を退けてから、また少し時間が経った頃、この宴席が始まってから、ずっと正面に座っていた彼が、こちらには何も告げずに、突然席を立ちました。私に見切りをつけたかのように、そそくさと入り口側のテーブルの方へと歩んでいってしまったのです。つまり、皆川さんや太田らが座っているテーブルへと合流してしまったわけです。その時は、心優しい佐々木でさえ、私と一緒にいると、会話が弾まないので楽しくはないと、そう判断したからこそ、移動を決意したのだと推測しました。そこに思い至ると、今度こそ、すっかり落ち込んでしまいました。それからしばらくは独りで飲んでいました。周囲の喧騒の中で、自分だけが不毛な時間を潰していることは億劫でしたが、致し方ありません。孤独な時間の中で新たな発想も生まれました。それは、皆川さんは責任感のないバカどもに、あれだけ飲まされてしまったのだから、帰りはこの自分が責任を持って、きちんと駅まで送ってやらねばならないという強い決意でした。これまで大人しくしていた私が、自分から騎士役を申し出れば、当然にして、皆の注目を浴びることになるでしょう。しかしながら、後日になって、くだらない同僚連中からの嘲笑を受けることについては、まったく恐れていませんでした。しかし、当の皆川さんがこちらの想いに気づいたとして、それをどう思うかについては、多少は気になりました。無下にされてしまうのかもしれません。明日以降、余計に冷淡にされてしまうかもしれません。しかし、どのような失態を晒そうとも、他のメンバーにどう思われようとも構わないほどに、この頃にはアルコールの勢いが増していました。恋愛を成就させたいという気持ちが加速していたのかもしれません。  そのときでした。すぐ近くから、『ちゃんと、飲んでますかー』という明るく陽気な声が届いてきました。慌てて顔を上げると、私の正面の席、先ほどまで佐々木が座っていた席に、皆川さんが来てくれていたのです。私はこのときほど驚いたことは他に体験していません。すぐに、佐々木が気を使って、彼女をここまで案内してくれたのだと感づきました。彼に自分のいじましい心をすっかり読まれていたことにようやく気がつき、どうしようもなく恥ずかしく感じられました。皆川さんは人格が変わるほどに酔ってしまっていて、すでに前後不覚にまで陥っていました。私が何も話さなくても、ケラケラと笑っているのです。 『普段は自宅でそれほど飲まないでしょう? まだ、お酒に慣れていないんだし、あんまり飲んじゃだめだよ』と優しく声をかけました。勤務外で親しく対話するのは、これが初めてだというのに、自分の慕う存在から、どのような反応が返ってくるものかさえ、何も考慮できずに語り掛けていたのです。 『そんなに飲んでませんよー。やだなー、そんなに赤く見えますか? みんなが楽しそうにしているから、なるべく、飲んだフリをしているだけなんです』  彼女は勢いよくそう答えると、その小さな拳を握りしめて机をバンバンと叩き、また笑い出しました。こちらが話すべき言葉を失うと、ぼんやりとした表情に戻り、どうしたものかと、こちらの顔をしばらく見つめていました。雨の夜半に軒下まで訪ねてきた子猫が、窓の中にいる住民たちを見つめていて、果たして、この方々は立派な飼い主になってくださるのだろうかと首を傾げているかのように。  皆川さんはこちらの激しい動揺を尻目に『今度、難しい仕事を教えてくださいねー』とか『日曜日とか、家ではどんなことをしてるんですかー』『ご自分で料理とか、するんですかー』などと、矢継ぎ早に質問を浴びせかけてきました。言葉を交わしていく度に、戸惑うのはこちらばかり。普段とはまるで逆です。いつも物静かな彼女が、少々の酒に我を忘れて、これほど大きな声で大胆に振る舞えるということを知る、良い機会になりました。周囲に漂う気配は、我々ふたりに悪意を持つものではなかったはずですが、私はなるべく慎重に言葉を選びつつ、当たり障りのない受け答えをしていました。辺りで耳をそばだてる第三者に、どう受け取られたとしても、差し支えのないようにです。おそらく、それは十分程度の会話だったはずです。こんな時にしか、彼女と差し向かいで会話を楽しむ機会など、存在しないこと。そして、おそらくは、もう二度と、自分の人生の時間軸のどこかを探したとしても、これほど幸福な時間が訪れることはないことも十分に理解していました。 『えっと、秋本さんがボーイの解散DVDを持ってるって、ついさっき、佐々木さんが言ってたんですけど、絶対、それを貸してくださいねー。できれば、あしたにでも、会社に持ってきてくれますか、本当ですか? 持ってきてもらえたら嬉しいなあ』  彼女との親密さが少しずつ増していくに連れて、私は次第に寂しくなってきました。皆川さんが自意識を失った状態により、ようやく訪れたこの大切な機会とそこで感じられる幸福は、完全に架空世界のものであり、もう間もなく幕を閉じるであろうこの宴会の後には、徐々に失われていく影の世界のはずです。彼女が自意識を失っている限り、仮にここに座っているのが、太田や私以外の社員であっても、誰にとっても開かれているはずの扉なんです。彼女は夜明けが近づくと共に、少しずつ理性を取り戻し、我々男性の言葉尻が放つ欲望への嫌悪感も徐々に蘇ってくるはずです。明日の勤務が始まれば、また太田係長や他の課の凛々しい社員との交流を楽しむ普通のOLに戻っていくのでしょう。その記憶の内部に、今宵の一刻のことは、何ひとつ残されません。自分より有能な人間たちへの妬みや憎しみの感情に駆られて、そんなことを想うわけではないのです。ただ、目の前に広がっている密やかな幸福に相対する形で生まれた、ひと末の寂しさのみを感じていたのです。   刑事さん、さっきから、メモばっかり取っているようですが、私の話をちゃんと聞いてくれているんですか? この時の私の複雑な心境が分かっているんですか? あなた方は揃いも揃って、この私を死刑囚に仕立て上げようと画策していらっしゃる。私の足元に破滅への落とし穴を無理くりに作りあげ、そこに放り込むことだけを考えていらっしゃる。いい加減、そんな不審そうな顔を並べるのはやめてください。今、あなたがたが本当に知りたがっている情報の詳細について、きちんと説明しているではありませんか。これを裁判への証拠としなくて、いったい、どうするつもりなんですか。私はあの夜、彼女を敬愛して守ろうとしていた。ここに何の悪意があるというのですか。どうあっても、私を殺人犯に仕立て上げるつもりなんですか? あの麗しい女性に対して、私が密やかな殺意を抱いていたと、まだそんな疑いをもっていらっしゃるんですか? この期に及んで、よくもまあ、そんなことを言えますね。これまでの説明を集約して、そこから冷静に判断してくださいよ。あなた方が不審を捨て去らない限り、私の口は何度となく、同じことを繰り返さなければならないのですから。私は彼女を見染めたその日から、その姿を遠くから見守っていただけなんです。彼女が野獣の森の中でも、安心して仕事に取り組めるように……。皆川さんが何の不安もなく、長く勤められるように努力を続けるつもりでした。この美しい関係の間に、そのような恐ろしく痛ましい事件が起きるはずがないのです。  皆川さんとの会話は、十数分ほどにも及びました。彼女の仕草や視線に捉われているうちに周囲からの視線など、まるで気にならなくなっていました。ふたりきりでずいぶん長いこと談笑することができたのです。しかし、教会の鐘に怯えるシンデレラよろしく、時の流れが我々の関係を引き裂きます。時計はいよいよ八時を回り、我々が店を貸し切っていた時間をいくぶん過ぎてしまっていました。すでに意識朦朧、前後不覚にまで陥っている部員も多く、一時解散することになりました。こちらの策謀により、濃い酒を飲まされたせいか、あの太田でさえ相当に酔っ払っていて、誰かに肩を支えられなければ、まともには歩けないほどでした。奴の自宅はこの店から近い距離とはいえません。この時点で散開したとしても、まともに家まで帰りつくのは難しいように思えました。このまま駅に向かえば、自宅に向かうまでに、電車かバスのどちらかの乗り継ぎの選択を誤る気がしました。そんな状態にありながらも、奴はまだ調子に乗り切っていたのです。他の部員の制止を振り切り、皆川さんの腕を乱暴につかみ、『もう一件、もう一件』と、別の店へと連れ込もうとしていました。確かに、その会話の内容は私の耳にまで、聴こえてはきませんでした。しかし、私の感覚においては、彼らの会話の内容は、きっとそのようなものであると、そう判断したのです。  やはり、私が事前に想定していた通りの行動に出たのです。あのとき、三年前に別の新入社員を殺害してみせたときと、まったく同じ流れではありませんか。何の反省もみせない奴の悪のりには、すっかり腹を立てました。これが我慢の限界というやつです。私は早足でふたりのところへ近づいていくと、奴の胸を力いっぱい突き押して、よろけさせてやりました。取るに足りない存在であろうと、思い込んでいたこの私に、よもや、そんな反撃を喰らうとは思ってもいなかったようでした。その表情は今の一撃でいくぶん正気を取り戻したのか、ずいぶんと驚いていたようにみえました。殴り合いに持ち込む気はなかったようです。周囲にいた他の部員は、今自分がいる空間の有為無為が、容易には判別できないほどに酔っぱらっていたせいか、私が唐突に行った乱暴なふるまいは、誰の視界にも入らなかったようでした。おそらくは、この夜の記憶のひとつとして残しておいた人間すらいなかったはずです。  私は皆川さんを最寄りの駅まで送っていくと力強く宣言しました。もう、あんな奴らには用は有りません。彼女とともに暗がりの通りを駅に向けて歩きだしたのです。私の宣言や行動について、『いつもの秋本とは違うぞ』と、不審を抱いた同僚はいなかったはずです。そう判断しました。皆川さんには『さあ、もう、ここにいてはダメだ。すぐに電車に乗って帰るんだよ』と言い聞かせました。彼女は二次会をあきらめると、上司にきちんと頭を下げた後で、夜風に洗われた前髪をいくらか気にする素振りをみせ、そっと撫でをつけると、文句のひとつも言わずに、私の後を付いてきたのです。  太田が獲物に飢えた野獣のように復讐を胸に後ろから迫って来ないか、帰り道では、それだけを不安に思いました。すっかり泥酔状態に陥ってしまった皆川さんが、よろけて転倒しないように、時々肩を支えてやりながら、そのか弱い身体が車道にはみ出さぬように気を配りました。  え、なんです? 彼女を駅まで送っていったのは、本当に私一人だったのか、ということですか? もちろんです。ここで証言を偽るバカ者はいないでしょう。虚言でも吐けば、あなた方の陰謀の思うままではないですか。帰り道で他の同僚をひとりも見かけませんでした。後ろから、追って来る者もいませんでした。後日聴いた話では、佐々木や尾上は太田に連れられて、一緒に二次会のカラオケに向かったようでした。私は途中で皆川さんに、『大丈夫? 電車に乗って、自宅の最寄りの駅までちゃんと帰れる?』と尋ねてみました。彼女は『だいぶ気分が落ち着きました。もう、大丈夫です。ありがとうございました』と弱々しい口調で答えました。無理に正気をアピールしたようにも思えましたが、徐々に平静な心を取り戻しつつあるように見えました。生まれつき酒に強い私は、一度トイレに行ったので、宴会終わりから三十分も経つ頃には、徐々にアルコールが抜けてきていました。しかし、彼女はまだ自意識を完全には確立できずに、少しぼんやりとしていました」  ――刑事のひとりがそこで一端休憩をとらせようと、秋本に緑茶の入ったコップを手渡した。その顔に先ほどのような火照りは見られなかった。彼の気分が落ち着いていることを確認して、私はひとつ尋ねたいことがあるのだと要望した。彼の表情から警戒心は消えなかったが、嫌な様子もそれほど見せなかった。私は自分で用意してきた何枚かの資料をめくり、できるだけ要点をまとめてから、以下のように尋ねてみた。 「先ほど、宴会終了後の店外での太田氏とのやり取りの中で、『自分が皆川さんを家まで送っていく』と宣言したということでした」 「その通りです。ずいぶん時間が経ちましたが、その台詞については、ほぼその通りだと思います」  秋本はお茶をすべて飲み干してから、何の躊躇もなく、そのように答えてみせた。少し、冷淡にも思えた。私は机の上に左の肘を置き、それで顎を支えるようにして、もう一度、適切な問いかけを頭の中で慎重にまとめてから、次の質問を投げてみた。 「よく考えてからで結構ですので、次の質問に答えてみてください。翌日以降、いえ……、できれば、翌日の会社での状況をお聞きしたいのですが、同僚のどなたかが、あなたに対して、昨夜、皆川さんと付き添って歩いていたことについて、何らかの質問や、あるいは……、まあ、これは形式的な問いですが、誰かがあなたを冷やかしたりはしませんでしたか?」 「それは皆川さんが行方不明になったという一報を受けて、同僚たちがにわかに、自分の当夜の行動を疑い始めたように思えたか、という質問でしょうか?」 「いえ、どうか、そう慌てて応じないでください。質問の要旨をよく考えてみて下さい」私は慌てて彼の憤りを吹き消そうとした。もう一度、質問の文言を変えて、理解しやすく整理してみた。 「つまりですね、太田さんの振る舞いが少し乱暴であったということで、あなたはふたりの間に割って入り、皆川さんを救い出し、自分の力で駅まで送っていくという判断をなさったわけですが、その『あなたが彼女をエスコートしていく』という宣言と『あなたと皆川さんが連れて歩み去っていく姿』について、翌日以降、どなたかが話題にしていませんでしたか? 例えばですよ、こういう感じにです。『おい、秋本、昨日はずいぶん格好よかったな。皆川さんを無事に送っていって、少しは仲良くなれたのか?』」 「いえ、そういえば、誰からもそういった冷やかしは受けませんでしたね。まあ、それも当然でしょう。何しろ、あの時はその場にいた全員がまともな言語も話せないほどに酔っていましたから。私がどんなことを言おうと行おうと、それをまともに捉えた人間はいなかったはずです」  これは非常に重要な証言になるわけだが、秋本被疑者は、これまでと同様に、実に淡々と不安など億尾にも出さずに、そのことを話してみせた。裁判所の受け止め方次第では、自らの人生を大きく左右しかねない証言になるというのに。  
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