梟(ふくろう) 第八話

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梟(ふくろう) 第八話

 その顔色は青白く、ずいぶん気分が悪そうにみえました。たった、それだけの言葉しか交わさないうちに目的の駅まで到着しました。ただ、彼女をこのまま一人で家に返すことが次第に不安に思えてきました。新人の社員にとって、勤務後の長時間にわたる飲み会は多くのストレスと疲労を伴うはずです。車内で寝込んでしまうなどして、目的地を乗り越し、遠くの駅まで運ばれてしまうことがあり得ます。弱りきった彼女の姿が、とてもかわいそうに思えてきたのです。そこで、私も一緒の電車に乗って付き添い、自宅の最寄りの駅まで送ってあげることにしました。もちろん、やましい心からではありません。愛する人を最悪の結末から守りたいがための決断です。彼女を無事に自宅まで届けてから、自分の家に向かっても、時間的には大して問題はないと思ったのです。 「大丈夫? 喉がイガイガしてない? お腹の気分は悪くないかい? どなたかの座席をひとつ空けてもらおうか。それとも、一度、どこかの駅で降りて、夜風にあたろうか?」  列車に乗ってしまってから、しばらくの間、左右から襲いくるしつこい振動が気になりました。私は彼女の身を気遣い、そう尋ねました。都心にある各企業の退勤時刻のピークと重なる時間帯であり、同じ車両には帰宅を目指す、多くの会社員が乗り込んでいました。いつもは大勢の中での孤独を存分に味合わされているこの空間において、皆川さんとふたりきりでいられることが嬉しくて仕方がありませんでした。彼女は時間の経過により、さらに酔いがまわってきたようで、今夜、まだ打ち解けずにいた他の部員と楽しく過ごせたことを、うわ言のように呟いていました。 『佐々木さんと友飼さんは、お二人とも学生時代はラクビー部で……。ご存じでしたか? 実は、おふたりとも同じ大学の先輩と後輩……。ああ、この広い社会に、そういう巡り合わせもあるんだなって……』 『いや……、それはそうなんだけど、巡り合わせとか奇妙な運命とかじゃないんだ。友飼は学生時代から大酒飲みだったのでね、就職活動期に、せっかく内定が取れた企業の健康診断で肝炎が発見されて引っかかってしまったんだよ。卒業後の行き先が無くなって途方に暮れていたところを、部活の先輩だった佐々木が拾い上げてやったんだ。一応、ゼミの教授の推薦という形にはなっているけどね……」 「そうでしたか……。あと……、これは知ってましたか? 太田さんは秋に行われる主任昇格の試験を受けるために……、今、猛勉強中なんだそうです……。本当に……、向上心の塊のような方ですよね……」 「あんなわがままな野郎が責任者になんてなったら、うちの部所は終わりだよ」  彼女の呟きは、おそらく、私に向けられたものではなかったのでしょう。しかし、そのほとんどについては、黙ってはいられないものでした。ドアの外の眩い夜景へと目を移しながら、よく言い聞かせるように、そう答えてやりました。皆川さんも、吊り革に掴まったまま、窓の外の移ろいゆく景色に、酔いにまどろむその視線を向け、しばらくして、再び今夜得た情報を語りだしました。 「太田さんは大学時代にロンドンに留学していたので……、英語はペラペラなんですけれど……、これからの時代は……、この狭い国に引きこもって働いていても……、ダメなんだって仰っていました……。若いうちに世界に出て……、もっと多くの経験を積まなければダメなんだって……。成功するためには……、経済のみならず、あらゆる広範な知識を得て、常に他人を出し抜く知恵を備えておくことだって……。もっと、社会の中で発言権のもてる人物になってやるんだって……、今、中国語やフランス語も勉強しているそうです……」 「中国語だって? あいつにピッタリくる言語だな。自分中心でものを考える国、自分のことだけしか考えない国、自分以外は存在しなくても困らない国」  彼女の気持ちは、今現在、確かに同じ位置にいるはずの私ではなく、どうも太田の方へと向いているように感じられました。私は致し方なく、少し機嫌悪そうに、そう言い返してやる他はなかったのです。先ほどまでの宴会において隣に居座り、ずいぶん長いこと話し込んでいた太田の巧妙な話術によって、皆川さんの心はすでに蝕まれ、奴の悪魔の手の爪先の猛毒により浸食がずいぶん進んでいるような気がしました。自分が守ってやらねばという思いは、この時間帯にますます強くなったのです。この先の順路において、彼女の盾になれるべき人間は、すでに自分しかいないのだという、鋼のように強い使命感を帯び始めていたのです。  彼女の自宅の最寄りの駅にまで到着すると、ふたりで足並みを揃え電車から降りて、そのまま横に並んで、改札に向かいました。時刻はよく覚えていませんが、10時を少し回ったところだったかな……。自宅へ向かう列車がまだ動いていることを電光掲示板で確認しました。皆川さんはロビーの中ほどまで来ると、ちょこんと頭を下げました。「ここからだと、家はすぐ近くなので、もう大丈夫です。送っていただいて、ありがとうございました。本当に助かりました』と、丁寧な挨拶をしてくれました。彼女の表情を見ると、酔いはかなり醒めているように思えました。普段の彼女の姿に戻りつつあるということです。私はこのとき、少し怖くなりました。なぜなら、彼女が自分のような地味な存在と会話を楽しんでくれるのは、あくまで、アルコールの特殊な力を借りているからであって、もし平静の状態であれば、そんな親し気な態度をとってくれないのではないかと、その思いがさらに強くなっていたからです。しかし、今夜の特別なイベントはすでに終わっており、それ以上の会話については、諦めるしかありませんでした。何も言葉を返さず、黙って手を振りました。彼女はもう一度お辞儀をすると、踵を返して、ゆっくりと歩み去っていきました。  え、今、何を言われたんですか? ここから先に語る証言は、いよいよ重要だから、もっと詳しく話せですって? もちろん、あなた方に言われずとも、説明をしますよ。あの夜にあったことのすべてを詳細にお話するつもりです。  私はロビーの出口付近に立ち、彼女の背中をずっと目で追っていました。皆川さんの後ろ姿は、次第に小さくなっていきました。電灯に照らされたその影の最後の一片が視界から消えかけたとき、とりとめもない寂しさと、ひと末の不安に襲われました。それは突然に湧き出たもので、このときの気持ちを、うまく説明することは難しいです。私はなぜかソワソワとして、落ち着かなくなり、帰ろうにも帰ることは出来ず、居ても立っても居られない思いもあり、やはり、彼女の後を付けていくことを決めました。それはやはり、太田という存在が気にかかったからです。なるほど、奴とは飲み屋の近辺で、すでに別れているわけだから、どう考えても、ここまで追ってきていることはないと仰るんですか? 何を言うんですか。あいつは以前にも、誰にも疑われることなく、新入社員の青年を見事に殺してみせたではありませんか。もちろん、数年前に起きたあの轢死事件のことです。あれを事故にしてしまうなんて……、悪魔の所業としか思えません……。  皆川さんの後ろ姿を追い求めながら、ホールの外へ出てみると、ロータリーでは酔っぱらいのサラリーマン数名が、タクシーの支払いをどうするかで意見が分かれて内輪もめに発展したらしく、ずいぶんと騒いでいました。それ以外は、どこを見渡しても静かなものでした。バスターミナルでは、すでに酔客たちの長い行列が出来ていました。狭い歩道の上では、無名のストリートシンガーたちが、周囲の迷惑など顧みず、ぎゃんぎゃんとエレキギターを喚かせながら、ただ、ひたすらに演奏していました。ほとんどの通行人はそれに視線を向けることなく過ぎて行きます。ただ、家に帰り損ねたのか、スカート丈の短い、上着から覗く肌も露わな数人の女子学生たちが、冷たいアスファルトの上に座り込み、時折、楽しげに手を叩きながら、その様子を眺めていました。 『僕たちならいつか飛べるだろうー、夢を追いかけようー、かけがえのない夢をー』などと、まるで何の教科書も読まずに、一晩で書き上げたたような歌詞を、恥の欠片も見せずに歌っていたのを覚えています。他人の夢の動向を歌詞に描くことなどより、こんな時間になっても自宅に帰れず、公衆の面前で大騒ぎを演じている、自分らの未来については、気にならないのだろうかと、そちらの方が、よほど気にかかりました。  私は皆川さんを見失わないように、しかも、ある程度の距離を保つようにしながら追いかけました。彼女につけていることがばれたなら、あらぬ疑いをかけられることになりかねないからです。今夜まで、自分なりに積み上げてきた決して高くはない信頼度が、その途端に、バベルの塔のごとく、木端微塵に崩れ去ってしまうかもしれません。地元に戻り、彼女の歩みに迷いはなくなり、その速度はかなり早まっていました。駅のロータリーのバス停とその周回路を大きく迂回するように、彼女の姿は右側の歩道を商店街方面へと向かっていきます。  事前の予報がどのようなものであったか、その詳細はよく思い出せませんが、このとき、雨はすでに止んでいました。気温は程よく、初夏の涼しい風が通り過ぎていきました。それはとても爽やかで、まるで、私のこれからの行動を後押ししてくれているように感じられました。すぐ先の未来に、彼女の本来の姿を知ってしまうような気がして、否が応でも胸は高鳴りました。  皆川さんの姿は、西町商店街と書かれた白い大きなゲートをくぐり、比較的人通りの多い賑やかな道へと入っていきました。しかし、この中央商店街に軒を連ねる店であっても、すでに午後十時を回ったこの時間ですから、コンビニや金券ショップくらいしか開いていなかったように覚えています。看板やウィンドウの灯が、すでに消された歩道は仄暗く、道路沿いに数メートルおきに立てられている、電灯の微かな灯り頼みになっていていました。  彼女はまだ開いていた惣菜屋のチェーン店に迷いもなく入っていきました。夜食を準備しようと思うほどに、脳が働いているということは、その酔いについては、ほぼ醒めていると判断しました。私は狭い道を挟んで惣菜屋の向かいにある、中古ゲームソフト屋前の電信柱の後ろに隠れて、息を押し殺して待ちました。その店は派手なグリーンの看板が未だに輝いていました。それが店の運営や店員の有無を示していたのかは判断できません。背後の視線に警戒しつつ、今後のことを思いながら、彼女が出て来るのをじっと待ちました。それから十分も経たずに、皆川さんは右手にビニール袋を持って出てきました。彼女の細い脚は、歩道の上で、軽いステップを踏んでいて、何か楽しそうに見えました。普段の姿を予測することはできませんが、まだ、アルコールが残っているのではないかと不安になりました。このように闇に紛れながら、好きな人の後を追っていると、視界に入ってくる他の登場人物については、すべて彼女にとって障害になるもの、自分にとって邪魔な存在に見えてきました。  商店街を抜けて次第に離れていくと、その姿は電灯の数も少ない裏通りへと入っていきました。このような薄暗い、人通りのまばらな道を、何の反抗する術も持たぬ彼女が、毎日のように通っていくのかと思うと、私の不安は増していくばかりなのです。こんなに狭く暗い道の上で、太田のような野獣に出会ってしまったら、彼女を守りきれないのだ、とまで思うようになりました。皆川さんは、これからの毎日を、こんなに危険な道を渡り歩いて、帰宅しなければならないわけです。私は不安は突如として危機感に変わりました。これからの日々も、私が折りを見て、様子を伺いに来てやらねばならないとさえ、思うようになっていたのです」 ――私はそこで秋本の供述をいったん止めさせた。いくつかの重要な質問があると告げた。彼の表情には動揺や変化は、まるで見られない。隣に陣取る刑事たちは、ようやく動き出したこちらの態度に、怪訝な素振りをみせていた。この静止の意図にまるで気づいていないようだった。 『ひとつ気にかかったことを尋ねます。よろしいですか?』  秋本はまだ嫌がるような素振りを見せていない。話を急に止められたことについて、それほどの焦りや嫌悪感を感じていない様子だった。ただ、少しだけ、身を前に乗り出す仕草を見せた。 『先ほど話された、彼女の地元駅のロータリーに出た辺りの件(くだり)……。あなたが彼女の背後を追っていくことを決断したときの様子について、いくつか尋ねます』それでも、彼の表情に変化は見られず、無理に平静を装っている様子でもなかった。ほとんど届かぬほどの静かな声で、「ええ……」とだけ応じた。 『まず、タクシー乗り場において、酔った会社員が騒いでいたと語られましたが、それが何名ほどであったか、覚えていらっしゃいますか?』 「三名のグループでした。全員がネクタイを解いて、背広をだらしなく羽織っていました。その色はたしかグレイでした」 『分かりました。では、もうひとつ、こちらから尋ねたい。歩道で声を張り上げて歌っていたストリートシンガーの件(くだり)、それを応援していた女学生がいたとのことでした。少し考えてからでも一向に構いません。なるべく、詳しく答えてください。その女学生はどんな格好をしていましたか。具体的にです』 「ああ……、そうですね。そのシンガーにエールを送っていたのは、黒いTシャツを着た未成年と思えるふたり組でした。奥の子の外見については、私の位置からはよく見えませんでした。でも、ふたりはよく似ていたように思います。手前の子は肩まで髪を伸ばして、染めていたと思います。茶色か金髪だったかは、暗くて判別できませんでした」 『よく、覚えてらっしゃいますね。それ以外には……?』 「えっと……、待てよ……。ああ、そうだ、手前の女の子のTシャツの背中に、人気アニメキャラの図柄が大きく描かれていました。最近、映画でヒットを飛ばしたことを新聞などで報じていたので、その絵にピンと来たのです」 『なるほど、参考になります。あとひとつ、大事なことをお伺いします。被害者皆川が総菜屋に入っていったときの件(くだり)、あなたはゲームショップ前の電柱に身を潜めていたとのことですが、その場所は総菜屋の入り口から見て、どのくらいの距離がありましたか?』 「えっと……、それは、どうだったかな……」  秋本は少し戸惑った様子を見せた。その表情にこそ変化は見られないが、少々意表を突かれたような印象を受けた。彼の語っているあの夜の行動が真であれ、虚実であれ、それは一か月以上前の記憶である。ここに呼び戻してくることは、容易でないことは、こちらも重々承知している。ただ、逡巡するその表情は、この期に及んでも、まだ、出まかせを繰り出そうとしていたり、巧妙に言い抜けようとしているわけではないことも伺い知れた。表面上は何とか真実を語ってやろうとしているようだった。ただ、それを如何に重ねていっても、一向に捜査側のプラス材料になっていないだけで……。 「ああ、そうだ、皆川さんが店から出てくるほんの二分ほど前でしたが、同じくらいの年齢の女性が、先に出て来ました。少し距離があったために、簡単には判別できなかったことを思い出しました。危うく、その動きに反応して、飛び出してしまうところでした。おそらく……、十歩以上は離れていたと思います。ですから、十二メートルから、十五メートルの間くらい……」 『ありがとう。大変よい回答です。実に参考になりました。』 「いったい、それが……、こちらの言い分に、何かおかしいことでもあるんですかね?」 『ええ、かなりね……』  私は常に正面を見据え、秋本被疑者の表情の変化のみを伺っていた。ただ、隣に座る刑事たちが、こちらの問いかけの一部始終に注目していることも、その場の気配から強く感じていた。早く何かを尋ねろ、もっと畳みかけろ、と命じられているように感じられた。 『秋本さん、あなたが次第に酔いから覚めつつある皆川さんに寄り添いながら、改札を出た辺りのことですが……。たしか、ロビーの出口の辺りまでは、一緒に付いていったと……。直後に、皆川さんが「もう、自分は大丈夫です」と述べたことで、一度はその場で別れることにした。しかし、突如として、太田氏が追ってきているかも、という不安に襲われ、再び、彼女を追うことにした……。これで合ってますよね?』 「ええ、その通りです。でも、太田の凶暴性について、もっとお知りになりたいのならば、もう少し、質問の趣旨を明確にして頂ければ、きちんと説明できます」 『いえ、そのことではないんです。あなたが皆川さんを追って、駅の外のロータリーに出たとき、彼女の後ろ姿は、あなたの目から見て、かなり離れていたと思いますが、どうでしょう。自分の立ち位置から、いったい、何歩くらい離れていたかを、覚えてらっしゃいますか?』 「あなたも刑事さんですよね……? 何だか、私が訴えたいことと、そちらの質問とが、かけ離れているように思えるのですが……。ロータリーに出たときの彼女との距離? それが、そんなに重要なことですかね?」 『ええ、あなたは一度彼女と別れている。言い方は難しいですが、そうですね……、皆川さんが酔いから覚めたことを確認してしまったために、彼女と一緒に歩いていくことについて、言い訳がなくなってしまった、とも言えます……。もう少し、付け足すならば、これ以降は、愛しい彼女を尾行していくとした場合、見つかることには相当なリスクがあると……』 「ですから、それはあくまで警察側の言い分ですよね? 自宅のすぐ近くに来るまで、彼女の身を守ってきたのは、この私なんですよ。その私が再び追い付いて来たことが、彼女にバレたからといって、それが何だと言うんですか? もしかしたら、彼女が振り返ったとき、私の姿を目に留め、ひどく驚かれてしまい、そのことについて逆上して、犯行に及んだとでも言いだすんでしょうかね?」 『秋本さん、なるべく興奮しないでくださいね。そういうつもりではないです。私はあなたのその行動を疑ったわけでなく、むしろ、肯定しているのです。誰だって、自分の前を行く人が顔見知りであった場合、距離を取りたい気持ちが生じることは体験しているでしょう。通勤時や通学路など、関係者は皆、同じ道を通っていくわけですからね……。知り合いと隣り合い歩いていくことについて、皆が気分よく感じるわけではない……』  私がなだめるようにそう言ってやると、彼の気分は多少なりとも和らいだようで、何度か頷いてみせた。「それで……?」と低く呟くのが聴こえた。 『私が申し述べたいのは、ふたりの距離のことなんです。あなたは彼女を家まで追跡していったと調書に書いてあります。ただ、先ほど、ご自分で証言なされた通り、彼女に自分の姿を見られることを、相当に恐れていた。となると、必然的に、ある程度の距離はとっていたことにはなる』 「私が何を不安に思っても、それは自由なんだし、あなたに内心までを証明することは出来ないでしょうが……。ああ、そういえば、駅外のロータリーにまで出たときの皆川さんとの距離を尋ねていましたっけね。そうですね……、私がロビーから出て、歩道に降りるため、階段の中ほどにまで到達したときにですね、彼女の後ろ姿は、すでにタクシー乗り場を少し過ぎていたことを覚えています。そうなりますと、かなりの距離がありますかね。その時点で、どうだろう……、十五歩……、ニ十歩……、そのくらいかな?」 『その回答でよいと思います。こちらの憶測ともだいたい合っているので助かります。そうしますと、身長160センチ足らずの皆川さんの背中は、階段の上からでも、かなり小さく見えていたはずです。これから先の追随でも、ずっとそうです。あなたはどうやって、他の女性と目当ての彼女とを見分けていたんですか?』 「ああ、そんなことですか。簡単ですよ。皆川さんは当夜、白い毛糸で編まれた上品なスカーフを肩にかけていたんです。薄暗い電灯の下でも、よく映えました。それを目印に追っていたのを覚えています」  そう語ってみせた秋本の顔は、これまでの刑事たちの追求において、貫き通してきた通りの、余裕の顔に戻っている気がした。 『なるほど、白いスカーフね……、あなたはそれを目印にしたと……。しかしですね、それはその事件の夜に限ったことではないですよね? その日に至るまで、ほぼ毎日のように使用されていたのではないですか。よく思い出してみて下さい』 「そうですね、今年は三月の気候はやや温かく感じられましたが、四月に入って、また冷え込んできました。皆川さんが初めて出社した日からあの夜まで、仕事終わりの帰り際に、自分のテーブルの上を片付けた後に、そのスカーフを肩にかけるところを、毎日のように見ていた気がします」 『ありがとう、よく分かりました。では、皆川さんは当夜も、常備している白いスカーフを肩にかけ、自宅まで歩いて戻った。あなたは十数歩も後ろから、その白い輝きだけを目印に、彼女の背後をずっと追っていったのだと、それで良いですね?』 「もちろん、その通りです。先ほどから、そう話しているではないですか。何のことを仰りたいのか、さっぱりなんです。そろそろ、本題に入って欲しいですね」 『了解しました。では、先ほど話された、ストリートシンガーの横を通った件(くだり)について、もう一度。無名のシンガーの歌詞を記憶に留めていらっしゃいますね。それと、エールを送っていた女学生の外見と服装と……、Tシャツの柄についても……』 「ですから、それが、何か……? 歩道のすぐ脇で演奏していたので、彼らの存在は、正直、邪魔に思えました。女学生の服装も、首を少し横に傾ければ、誰にだって見えますよ」 『首を横に傾けることで確認できたのは、見物している女の子の髪が染まっていたこと、Tシャツの柄がアニメキャラであったこと。ねえ、そんなことを、なぜ、わざわざ確認したんですか? あなたはその瞬間、自分が心底思い慕っている女性の、それも十数歩も前を行っている、その後ろ姿を、目で追っているところなんですよ』 「なぜ、女学生のふたりを気に留めたかですか? ああ、それは当然でしょう。あんな夜遅くに、多分、女子高生なのかな……? あんな若い娘が薄着で地面にお尻をつけて騒いでいたなら、誰だって、当然気になるでしょう。あの辺りは質(タチ)の悪いチンピラだって通るんですよ。何か事件に巻き込まれたら、いったい、どうするつもりなんです? だいたい、次の日は学校だって、あるんでしょうが……」  隣で刑事たちがリズムよくペンを走らせる音が響いていた。彼らの書き込みが追いついてきたことを確認してから、私は次の質問を繰り出した。  『あなたは今、夜遅くに未成年を目に留めたから、それが気にかかったと仰られた。私がその場にいても、そう思ったでしょう。あなたは先ほど、地元駅に到着した時刻について、だいたい午後10時過ぎだと表現されました。しかし、都心の駅で別れた同僚たちや目撃者たちの証言、そして、警察のこれまでの捜査で集めた情報からして、私としては、もう少し遅い時間であったと考えている。おそらく、あなたが電柱の陰に身を潜め、皆川さんを待っていたのは、午後10時40分過ぎ……。もしかすると、11時に迫っていたのかもしれない』  秋本からの返答はなかった。外見上も何の反応も見られず、「それが、どうした?」とでも言いたげな冷たい顔である。 『あなたが駅頭で複数の若い連中を目に留めたことは、当然であると申し上げているんですよ。午後11時近くになって、小中学生がボール蹴りをしていたり、女子中学生の群れがアイスクリームを手に持ち、雑談に花を咲かせたり、脚が不自由な老年の夫婦が連れ立って散歩するということは、ほぼあり得ないんです。そんな時間に出会えるのは、終電めがけて駆け急ぐ会社員とOL、あるいは、バスやタクシー待ちをする人々。それについても、三十代か四十代の若手が中心になるでしょう。おそらく、その多くは酒気帯びなんです。あなたは先ほど、タクシー乗り場において、酔っぱらい連中うんぬんの証言をされたが、皆川の地元駅でなかったとしても、それが例え、新宿、池袋、新橋、錦糸町であったとしても、灰色のスーツを着て騒ぐくらいの連中はね、うんざりするほどいるわけです。その時間帯でなら、どの街においても、数十人単位で網で掬うように見つけられるはずなんです。つまり、あなたの先ほどの説明は、平日なら、どの日にでも適用できるもので、決して当夜の行動を保証するものではない』 「私の話を疑っているんですか? 酔っ払いに証言させるのは無理でしょうが、歩道で歌っていた、やかましいシンガーたちは、たしかに存在したはずです。警察なら、彼らを捜し出して証言させることは、さして難しくないでしょうが……」  この事件で取り調べを受ける唯一の有力な被疑者。自分では無実を信じきっているのかもしれない。どれだけ厳しい事実を突きつけられても、この男の態度はさして変わらず、ただ、淡々と警察の捜査や取り調べの手法について、批判や反論を繰り返すのみ。その目はどす黒く濁っていて、視点はどこを見ているのか判然とはしない。感情もほとんど見られない。こちらの言葉を本当に理解しようとしているのかさえ危うい。  休日も日がな一日家に引きこもり、十数時間以上も手元のゲーム機を見続ける幼子の目線がそうであるように。住処を持たぬ哀れな路上生活者が、虫の息で倒れているのに、まるで汚物でも見るかのように、その横をそそくさと通り抜けていく都会人たちの態度がそうであるように。「私はお客さんなのよ、ちゃんと、頭を下げなさいよ!」と、デパートの店員を怒鳴り散らす自称謙遜家のご婦人。他人の敷地内に平然と吸い殻を投げ込んでいく若者たち、その冷静な非道徳。また、常日頃、証拠不十分の名の下に、私の前へと連れて来られる凶悪犯たち。その態度、その視線、誰の反応も冷淡で薄い。『たしかに、自分がそいつを刺しましたけどね。まずかったですかね? いや、ちょっとムカついただけなんですよ。向こうから、つっかかって来たんで……、あんなことで罪になりますかね?』堂々とした態度において、そうのたまう、彼らの態度が、常にそうであるように……。
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