星の鱗

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「さあさあ、どなた様もご覧あれ、幸運を呼ぶ竜魚(りゅうぎょ)の水鉢だよ。お世話の仕方は、とってもかんたん。軒先に置いて、毎朝、お経を聞かせてあげる。水が濁らないように換えてあげる。たったのそれだけ!さあさあ、どなた様も、ぜひ近寄ってご覧くださあい。一家にひと鉢、幸運の竜魚の泳ぐ鉢。さあさあ、よってらっしゃい、見てらっしゃい。見て行くだけでも歓迎だよ!」  まわりをいくつもの寺院に囲まれたトランカ国の中心、首都パトラには、毎日朝から市が立つ。今日は月のはじめとあって、いつにもましてたいへんなにぎわいようだ。露店通りでさっきからひときわよく通る大きな声で客を寄せているのは、近隣の農村からやってきたひとりの少年。  頭に藍染めの布を頭にぐるりと巻いて長い黒髪を後ろでひとつに縛り、青いビーズ玉の耳飾りをつけているのは、都の北のトラン山脈のふもとにくらす少数民族、アト族の装束だ。くっきりした切れ長の瞳の色は髪と同じ漆黒で、まだ子供のままの甲高い声色ではきはきとしゃべる。 「さあさあ、よってらっしゃい、見てらっしゃあい!見て行くだけでも大歓迎だよ。国王様にも献上された、世にも珍しい竜魚だよ。」  少年の広げる椰子皮のむしろの上には、両手のひらに乗りそうな小ぶりな陶器の水鉢が十ばかり並んでいる。どの鉢にも、小さな白い花を咲かせた水草が入っていて、めだかのように小さな生き物が二頭ずつ、すいすいと泳いでいる。目を凝らしてよく見れば、金色、銀色、虹の七色、薄桃色に夕焼け色、翡翠色に瑠璃色と、宝石のように美しい色合い。それらは水田に泳ぐめだかに似ているが、よくよく見れば八対の小さな脚で水をかいて泳いでいる。背びれに見えるものは実はたてがみで、額の上には水のように透き通った小さな角が生えている。 「へえ、竜魚、か……。珍しいね。餌は、なにを食べるんだい?」  むしろの前で立ち止まったひとりの男が少年に聞いた。興味深々と水鉢を覗き込む旅人姿の男は若く、人の良さそうな苔色の瞳と短く刈り込んだ褐色の髪をして、背がひょろりと高い。背嚢に荷物がたくさん詰まっていて、おそらく長旅の途中だろう。そんな旅路のお供に水鉢に入った竜魚は買わないだろうが、冷やかし相手にも、少年は愛想の良さを崩さない。 「旅の御方、よくぞ聞いてくださいました。竜魚にえさはいりません。竜魚はもとをたどれば、雲の上に住み雲を操る竜族を祖先とする生き物でございます。お日様の光を栄養にして大きくなる性質です。太古の昔、人間の読経の声に聴き惚れて地上に降りてきた竜の一族がいると言われておりまして。それが竜魚のはじまりと言われております。竜たちがトラン山麓の池や沢に暮らすうちに人々はその池や沢をまつり、そこで朝に夕にお経を読むようになりました。それでももっとお経が聞きたいと、竜たちは村々の軒先の蓮鉢の中にも宿るようになりました。人と暮らすうちに大きかった竜の体はどんどん小さくなりまして、今では幼いものでご覧のとおりめだかほど。それを人々は竜魚と呼ぶようになりました。このあたりでは何百年も前からそのように呼びならわしております。竜魚は太陽の光とお経を読む声とを栄養として、月日が経って大きくなりますと蜻蛉ほどに成長いたします。そしてある日、雲の上へと飛び立っていくと言われております。蓮鉢の中から忽然といなくなるのです。じゅうぶんにお経の声を聞いて一字一句たがわずに覚えると空に昇るのだと、言われております。雲の上に飛び立つ瞬間を見た者は幸運をつかむとも言われておりますよ。」 「そうなのか…。お経というのは、このあたりでみんなが読んでいる、あれかな?」  旅の男は路地の向こうに広がる大通りを指さした。大通りのあちこちには竜をまつる小さな寺があり、銅製の巨大な香炉から漂う煙の筋が通りまで流れている。香炉のまわりには人々が集まり、両手を合わせて一心に経文を唱えている。海辺の村からやってきた女たちは、竹籠いっぱいに売り物のマンゴーや貝や魚を背負ったまま。今しがた大通りの染物屋から出てきた、店のおかみらしい若い母親はよちよち歩きの小さな子供を連れて。子供も母親の仕草をまねて香炉の前で神妙に手を合わせている。読経をしない者も、昼どきのにぎわう雑踏の中にあって、寺の門の前では誰もが足をとめて手を合わせてからまた歩き出す。そんな敬虔な様子を、旅の男は敬意のまなざしで眺めている。  少年は、男に向かって満面の笑みで大げさにうんうん、とうなずいて、嬉々として説明を始めた。元来、喋るのが好きな性質なのだ。 「はい、左様で。竜足跡経、と呼ばれるお経です。太古の昔に竜が雲の上から降りてきてトランカの大地を歩いたときに、その足跡が盆地となり、川や湖となり、人々は水田を作り稲を育てることができるようになったという、竜への感謝を歌う長いお経なのです。トランカに生まれたものでこの経文を唱えられぬ者はいない、と言われておりますよ。」   「そうなのか……。とても美しい響きのお経だと思って聞いていたが、そんな物語を歌っていたんだね。でも、そんな大切な竜の子孫である竜魚を、市場で売ってしまって、雲の上の竜は怒らないのかい。飼い主となった人が、必ずしも毎朝お経を聞かせて、鉢の水替えもしっかりやってくれるとは、限らないじゃないか?」    旅の男は、人の良さそうな苔色の瞳で鉢の中で泳ぐ竜魚を追いながら、考えを巡らせているようだ。その言葉には意地の悪い含みはなく、頭に浮かんだ疑問を聞かずにはいられないという様子だ。竜魚の美しさにすっかり魅せられているのが少年にも伝わってきて、ついつい、いつもの売り口上にも力が入る。 「旅の御方、ご安心ください。竜魚はもとをたどれば竜なのです。この、めだかほどの小さな身体にも、神通力が宿っております。<水の門>と呼ばれる力です。竜魚は水から水へと、自在に移動する力を備えているのでございます。万が一、飼い主様が読経を捧げてくれない、水が汚れて心地が悪い、お日様の見えない暗いところに置かれている、ということになれば、竜魚は<水の門>の力を使って、わたしどもアト族の池や蓮鉢の中へと、出戻ってまいります。まめに経を聞かせて、愛情こめてお世話をしておりますれば、竜魚が<水の門>の力を使うことは滅多にございませんが、ある日突然、気まぐれで力を使う竜魚もございます。また、数年の月日が経って蜻蛉ほどの大きさにまで成長した暁にも、竜魚は雲の上へと飛び立っていつの間にか蓮鉢からいなくなってしまうのでございます。そのことについてはじゅうぶんご承知の上、お買い上げいただきますよう、飼い主様となる御方には重ね重ね、お願いいたしております。ただ、一度でも竜魚にお経を読んだ者には、竜の加護があると言われております。飛び立つ姿を見た者には幸福が訪れるとも、言われておりますよ。夜にはほんのりと鱗が光って、とてもきれいです。さあさあ、どなた様も、いかがですか。」  いつの間にか、少年の広げたむしろのまわりには人だかりができている。アト族のこの少年は名前はククタといい、声と姿が美しかった。だからこそ、月に二度、竜魚の売り子としてパトラの都にやってくる仕事を、村の大人たちから任されているのだった。ククタが大きな声でいつもの口上を並べれば、珍しい物見たさに、かならずこうして人が集まってくる。そこにたまたま貴族や裕福な商人が通りかかれば、しめたもの。家で待つ妻や子供たちの喜ぶ顔を想像すれば、そこそこ値の張る竜魚の鉢でも、必ずほしくなる。竜魚の売れた金でククタは村の皆に頼まれた品物を買って帰り、それでも残った分は山分けし、あるいは村の蓄えとなる。 「その鉢、ひとついくらだ。」  人だかりの中から、狙いどおり、お供の者を引き連れた恰幅の良い旦那風の男がぬっと進み出てククタに問いかけた。 「旦那様、お目が高い。こちらはどれもひと鉢、三十ナシルでございます。」  それは、家族四人が質素な食事でひと月食べられるほどの値だった。旦那が値切りもせずに差し出した銀貨の袋を、ククタの後ろに控えていた大柄な男が受け取る。同じ村からククタとやってきた彼は十七、八の無口な男だ。ククタと同じ、頭に藍染めの布を巻き、豊かな黒髪を後ろでひとつにし、耳にはビーズ玉の耳飾りをつけている。ククタと違うのはそのがっしりとした体格と、腰に差した護身用の短刀だ。名前はハチカといい、村と都を行き来する道中に襲われることのないよう、ククタが竜魚を売りに来るときはいつも同行している力自慢の男だった。ククタが愛想良く客の相手をしている間、ハチカはじっと黙って後ろに控えている。身じろぎ一つせず、ククタの前にできた人垣に余念なく目を光らせ、仁王立ちの姿勢を崩さない。  そうして日も南に高くのぼるころ、十あった竜魚の水鉢はククタの口上で七つ売れ、残りは三つにまで減っていた。昼どきになり、水鉢の前に集まっていた人々も、昼餉をしたためるために、あるいは本来の用事を済ませるため、通りの方々に散っていなくなっていた。ようやくそこで、ハチカは口を開いた。 「七つも売れたか。上出来だったな。」  低くつぶやくように、たった一言ククタに声をかける。そして、大きな四角い木箱の蓋を開けた。ククタもハチカの調子に合わせ、満足げに短く相槌を打っただけで、あとは黙って木箱の中に竜魚の鉢を片付け始めた。木箱の寸法は、ちょうど水鉢が二つ、横に並ぶように作ってある。鉢を二つ並べたら、木の板を蓋として載せ、その上にまた水鉢を二つ並べ、また木の板の蓋をする……、そうして五段並べると、水鉢は十になる。この方法で、水を張って水草と竜魚を入れた状態の水鉢を、村から都まで運ぶことができた。今は売れ残りの三鉢のみなので、まず木箱の底に鉢を二つ並べ、蓋をして、三つ目の鉢を置いたら、半端が出たときのために用意してある古い木鉢を隣に置いて隙間を埋め、上からまた木の蓋をする。  小柄なククタが背負い紐で木箱を背負い、後ろから大柄なハチカが続く。ハチカは護衛なので、いざというとき身動きがとれるように、箱を背負うのは売り子であるククタの役目だった。  二人は持ってきた弁当を食べると、にぎわう真昼の市場に繰り出した。村の者たちに頼まれた薬やら、海の幸やら、布地やらを買い求め、日が落ちる前にはまた村に戻るのだ。                 ***   石畳の街道から逸れて、村へと続く小さな道へと入ってしばらく歩くと、見渡すかぎり広がる水田に出る。夕暮れどきの涼風に稲穂が揺れて、草と水と稲の香りが二人を包み込む。昼間に元気だった蝉たちはすっかり鳴きやんで、今は蛙の大合唱が青紫色の夕空に響き渡っている。  村に帰ると、二人は村長の家に行って売り上げた銀貨を手渡して取り分をもらい、市場で買った頼まれ物をそれぞれの家に配ってまわった。それから村の真ん中の蓮池に行って、売れ残った竜魚の鉢を木箱から取り出す。竜魚たちは朝に目覚めて、夜に眠る。今も、水草に咲いた白い花の陰に隠れるように竜魚たちは眠っている。それぞれの鉢に二頭ずつ入れられた竜魚たちの鱗は、銀と紫、緋に翡翠、薄紅に空色という組み合わせだった。それぞれの鱗の色と同じ淡い光を放っている。 「どいつもきれいだな。」  ハチカがため息をつきながら顔をわずかにほころばせ、大きな手でそっと水鉢を傾けて池の中に銀と紫を放した。ククタも小さく「うん」と答えながら、緋と翡翠を池に放す。続いて、薄紅と空色も。闇夜を溶かした黒い池の底に、六頭の竜魚たちは流星のようにすっと尾をひいて消えていった。                   ***  棕櫚を葺いた屋根の隙間から、薄青い朝の光が入り込んで目が覚めた。ククタは寝床から飛び起きると、髪を後ろに束ねながら、小走りで外に出た。東向きの広い軒下には、岩ほどもある大きな水鉢が置かれている。ククタの家に代々伝わる水鉢だ。アト族の村では、どこの家の軒にも、代々伝わる水鉢があり、鉢の中には竜魚を飼っているのだ。その水鉢の、ぽつんと一輪浮かんだ薄紫色の睡蓮の蕾の下には竜魚たちが、小さく透明な角のある頭を寄せ合って眠っている。ククタは毎朝、家族の誰よりも早く起きて、水鉢の中の竜魚の数を数えるのが、物心ついたときから、好きだった。時間がたって蓮鉢に朝日が当たるころになれば、竜魚たちは睡蓮の葉の隙間を縫ってすいすいと元気に泳ぎ出すだろう。そうすると、数を数えるのは難しくなる。ククタは水底で静かに眠る竜魚たちを、指をさして一頭ずつ数え始めた。 「あ、こいつ……!」  数えながら、思わず声が出た。漆黒の鱗に、金の星模様の散った大ぶりな竜魚。これは、昨日まではいなかった。でも、ずっと前に、村の池にいた。去年の今ごろ、ククタが池で掬って、ハチカといっしょに都で売ったうちの一頭だった。とても気に入った色と模様だったので、はっきり覚えている。パトラの都の露店通りで、むしろを広げて鉢を並べたときには、なんということのない、よくいる鱗の黒い竜魚だと思っていたが、陽光を浴びる水の中で水草の隙間を縫って泳ぐ金色混じりのその漆黒の竜魚は、丸い瞳も金色で、満月の星空をうつしたように美しかった。それに気がついてからは、いつもの売り口上で客を寄せつつも、どうか売れないでほしい、誰の目にも止まらず売れ残ってほしい、とククタは心の中でこの竜魚が売れないように祈っていたのだった。祈りもむなしく、ククタよりも少し年下かと思われる裕福な身なりの少年が、同行していた父親にねだって買い上げていってしまい、ククタは悔しい思いをしたものだった。  せめて朝夕しっかりお経を聞かせて、きれいな水で育ててほしいと思っていたが、一年経ってこの蓮池に戻ってくるとは。買われていったときよりも三まわりは大きくなっているから、飼いはじめてしばらくはかわいがっていたのだろう。それが一年も経って、みごとな鱗とたてがみと角にも見飽きて、お経も聞かせてやらずにほったらかしたか、それとも単に竜魚が気まぐれを起こしたか。ともかく、自分の家の鉢に戻ってきてくれたということが、竜魚と心が通じ合っているようで、ククタにはとても嬉しかった。ひとり微笑みながら大鉢の睡蓮の陰で眠る竜魚の数を数えると、ぜんぶで、三十八。昨日よりひとつ多いのは、もちろん戻ってきたこの黒い鱗の竜魚の分だな、と思いながら、ククタは水鉢に手を合わせて竜魚のための経文を唱え始めた。  ―どうか、空に飛び立つその日まで、ずっとこの蓮鉢の中に棲んでおくれ。  唱えながら、心の中で語りかけた。静かな青紫色をしていた東の空はいつのまにか茜色に染まり、朝の太陽の金色の筋が家々の屋根を照らし、蓮鉢の水面を照らす。光と声とを感じて、竜魚たちは眠りから目を覚まし、蓮鉢の中を悠然と泳ぎ始める。金の星々に彩られた漆黒の竜魚は、まるでククタの声に応えるかのように金の瞳を陽光にきらめかせ、睡蓮の蕾のまわりをくるくると泳ぎまわっていた。                                                             
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