鎖と手錠

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鎖と手錠 作 きゆなつひ 「あった。迷わなくて、よかったぁ」 スマートフォンの画面は、開始時間の10分前を告げる。受付を探してホールを目で確認する。 それらしきスペースが見つからない。時間が迫っていて焦るが、ほかに受講者らしき人もおらず足をニ、三歩進めては立ち止まった。 「研修会場を、お探しですか?」 眼鏡をかけた40代くらいの男性が、コーヒーカップを両手に声をかけてきた。中低音のしっかりと芯のある声。耳に直接入ってくるのがよくわかる声だった。 「へぁ?、、あ!はい!」 時間がないと焦っていたのと、受付箇所が分からず更に焦っていて、思わぬ角度からの発声に返事を失敗したのが露骨にホールに響いた。 クスクスと、優しい顔でこちらを眺める相手は小菅圭介と名乗った。研修課の課長。本来研修担当するものが、インフルエンザに掛かってしまい、研修を代理で行うことになったと紹介された。この先あまり会うこともないとは思うけど、よかったら覚えておいてください。と、自己紹介もそこそこに、コーヒーを手渡される。運べと言うことだと思いコーヒーを二つ受け取ろうとすると、また目尻に皺が寄った。 「須藤さんは、ご自身の分だけ持っていただければ。。それとも、二杯飲むのかな?」 優しい声は、鼓膜を逃さず震えさせる。心地よいのに、背中が同時に熱く、顔まで、しっかり熱くなるのを感じた。困った顔のままの返事をする。純粋に、二杯コーヒーを運ぶのだと思っただけだ。反論のような、甘えたくなっていることが、自分でもわかってしまっているような返事が漏れる。聞いているのかいないのか、小菅は、須藤に背を向けて、こちらですよ。と研修会場へと案内した。 丸テーブルを挟んで、イスが二脚。こちらにどうぞと椅子を引かれる。コーヒーをテーブルに置き、引かれた椅子に座る。押しますね。と言われた声に、自然と背中がスッと伸びるのを感じた。資料を持ってるくので少し待ってもらえるかな。コーヒー飲みながら、ゆっくりしていて。と指示される。意識して、返事をする。そうでもしないと、先程の焦りが、また自分を包みそうになる。 小菅が居なくなった部屋に、須藤の少し大袈裟なため息が漏れる。耳を触り、熱くなっているのを理解して、暖房の設定温度のせいかと、部屋の中をキョロキョロと見回すが、どれがそのボタンなのかわかるわけもない。もう一度だけ、ため息をつく。用意してもらったコーヒーを口にする。少し温くなって、飲みやすい温度に、豆の匂いと、砂糖の甘さを感じた。小菅のコーヒーを眺めながら、目線と声をリフレインする。 「好きな、声だったなぁ」 ため息のように声が漏れる。この後3時間ほどの研修が予定されている。この先会うことがあるんだろうか。目尻の皺が、須藤の心を既に掴んでいた。ため息というより、感嘆の息が漏れる。ぼーっとしなきゃいいけど、不安になった。既に心臓は、いったい何で鼓動しているのか、須藤自身わからない。そう思ったか、思わないかのところで、小菅の声が戻ってきた。 「おじさん相手じゃ、本気になれないかな。申し訳ない、ほんとは若い奴が担当だったんだよ」 いや、他の人じゃ、、、とまで言って言い淀む。まだ焦りが抜けないのかと、自分でも驚いている。思わず唇を噛む。困った時の癖だ。伏し目がちに小菅を見つめると、我慢がし切れなかったのか、ふっと声が漏れた。 「ふっ、、、いや、失敬、失敬。ふふっ、、。これ以上突っ込んでしまうとセクハラとか言われそうだからね、やめておこう。では、早速研修をはじめます。こちらのレジメに沿って進めていくよ。なにか、質問があったら気軽に聞いてくれると嬉しいです」 小菅の説明はわかりやすく、あっさりとしていた。とはいえ、研修用のPCを間に置いて顔を近づけている状態。時折漏れる呼吸音に心臓が一々反応する。着用していたカットソーの中が薄紅色にそまっていく、そんな気分だった。途中休憩を挟んで二杯目のコーヒーを飲んでいた時に、小菅が眼鏡を外して思い出したかのように言ってきた。 「ところで、ちゃんと、ぼーっとせずに聞いていてくれてるのかな?」 また返事に失敗する。小菅はとても楽しそうに、真面目に聞いてもらえてないとさ、あとで研修担当の奴に怒られるからさ、と悪戯っぽくこちらを見つめてきた。ん?と、目の中を見つめられた気分になる。いやぁ、と顔が下を向く。目を見て、応えて、もらえるかな?二度あることはなんとやら、上擦った返事なのか、呼吸なのかがもれてしまう。 「さ、おふざけはこの辺にして、ラストスパート。当社の取引先と、須藤さんに担当してもらう店舗について説明するね」 予定時間の超過も気にならないほど、小菅の話は楽しかった。しつこさがなく、理路整然としているのに、須藤のツボをしっかりと捉えて離さない。もう、この時には既に、調教は始まっていたのだ。深くて熱い、鎖に繋がれた、決して外れることのない手錠を渡されていたのだろう。それに気づいているのか、いないのか。咲く花は、いつから蕾として成長していくのか。これは、2人のプロローグである。
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