1人が本棚に入れています
本棚に追加
1
ヨリさんが蕎麦をすする。
この蕎麦屋の常連であるヨリさんは、とても暗い人だった。毎日ランチの時間にやってきて、お決まりご膳という千円ぽっきりのお得セットではなく、五五〇円のたぬき蕎麦、もしくは鶏卵蕎麦を注文する人。あんかけのお蕎麦が好きな人だった。
普段からしかめっ面して蕎麦を食べ、口から出るのは愚痴ばかり。ご近所さんの愚痴、親族の愚痴、政治の愚痴。この人は人生が思うようにいかなかったのかな、と私はヨリさんの愚痴にそうですか、と相槌を打ちながらむなしくなった。どことなく、私もこうなるんじゃないか、なりたくないな、という思いがあった。
そのヨリさんだが、ここ二週間くらい、あまり愚痴を言わなくなった。緩やかな変貌。しかめっ面が作っていた皺が減った。下向きだった視線が上がった。お化粧の色が明るくなったのか、それとも血色がよくなったのか。
「何かいいことがあったんですか」
私がそう聞くと、
「そうなのよ、エマちゃんも困ったことがあれば入らない? 私、入信してからすぐに悩みなんか、なくなっちゃった。やっぱり人間、無欲でなくてはいけないのね」
そう言ってヨリさんは綺麗に折り畳まれたチラシを差し出した。『天空の泉』という宗教団体。覚醒する真理、と謳われているが、今どきこんなのにハマるかな。いや、ハマる人がいるからチラシを刷るお金くらい湧いてくるんだろう。
「エマちゃんは、悩み事無いの?」
「ないですね」
「困り事があったら遠慮せずに言ってね。真理は天空にあり、なのよ」
ヨリさんはピッと人差し指を上に向かって立てて、微笑んだ。その指の先には真理があると言わんばかりだった。
最初のコメントを投稿しよう!