238人が本棚に入れています
本棚に追加
久しぶりにしっかりと自分の足跡を振り返って気付いたことは、結局は涼一義兄さんへの想いだけだった。
きっと凄くいいタイミングだったのかもしれない。明日から三日間休みというのは泣く時間もたくさんあって、ありがたい事に自分には何一つ用事なんて無いのだから。
出来るだけ頭を空っぽにして支度を始めると、チェスボードが濡れないように胸に抱えて傘を片手に表に出てみた。
安い傘に落ちる雨の音は絶え間なくて、何も考えず足を進めていく。一度暗くなり始めた空は瞬く間に夜を運んできて、灯され始める街灯がやけに寂しく見えた。
越して来た時に最初に浮かんだのは当然だが義兄の事だった。何度も何度も涼義兄さんの住むアパートの前を通り過ぎ、同じ景色を見ているんだって、それだけで温かい気持ちになった。
何気なく見ているはずの光景を自分の目に焼き付けて同じ道をただ歩くだけ。
今日も、それでいい。
今日も、それで、それだけでいい。
でも実際にアパートの前に立つと気持ちは変わっていった。今日一日寝ることもせずに過去と向き合ったのだから、確かめたくなる。本当に好きになって結婚するのか。そろそろ本当に俺だって生き方を変えなきゃならないとも。
降り続ける雨の中傘を閉じるとアパートの中に入ってみる。濡れた肩がとても冷たくて一度手で触れてみたけど、手の方がよっぽど冷たくて震えてる。
一階にある102号室の前で立ち止まり、冷え切った手で玄関のチャイムを押そうと手を伸ばして。
─── いなかったらいいな……もしも義兄と会ったなら、きっと明日からの自分は、今日とは違う。
そう思いながらも、そのまま指に力を入れてボタンを押す。同じタイミングで玄関奥にはよくある音が響いて、ただそれだけでおかしくなるほど緊張した。
ごそっと音が聞こえて逃げ出したくなった。
こちらに向かって歩く音で後ずさりした。
ドアが小さく開くと、動けなくなった。
ドアの隙間から見えた義兄の目が一瞬見開いて、マスクの下で唇を噛み締めて軽く頭を下げた。
「和希?だよね?」
「……うん」
記憶の中の義兄は大学生の頃のままで成長していない。でも、今目の前にいる義兄はもうすっかり大人の男で、あの頃よりもずっと落ち着いた雰囲気で雲の上の存在みたいに見える。
「良かったら、入る?」
「……うん」
緊張して涼義兄さんを見ないように足を進め、俺のアパートとはまったく違う広い玄関に立つ。濡れた傘から流れ落ちる雨水が、玄関に広がってるのをただ見てた。
最初のコメントを投稿しよう!