夜の帳が下りる頃

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 昔と変わらない切れ長の目は、今の俺さえも簡単に乱してくる。時間は十分に経ったはずなのに、簡単に乱される想いが余計に切なくて視線をまた傘に落とした。 「早く入れって。和希、かなり濡れてるよ」  顔に似合う落ち着いた声に頷くと「お邪魔します」の声すら掠れて、涼義兄さんはくすっと笑う。  部屋に案内されるとすぐに花瓶にささる花が目に入る。二人掛けのソファが一つと小さなテーブル、至る場所に可愛らしい小さなカエルの置き物があって、俺が知る義兄の趣味とはかけ離れていた。  女の人の気配がする部屋は、どう見ても一人暮らしの男の部屋なんかじゃなかった。  茫然としながら渡されたタオルで顔と肩を拭いて、古いチェスボードの箱をテーブルに置く。 「カフェオレでいい?」 「……うん」 「さっきから『うん 』しか言わないのな」  緊張している、そう言いたいのに言葉は喉の奥から出てこない。涼義兄さんとの間に起きた過去は、俺だけを縛り付けているもので義兄はもうあの夜を忘れてしまったのかもしれない。  湯気の立つカップがテーブルに普通に置かれたのにビクッと反応して、また笑う義兄はやっぱり俺とは違う。まだ想いを寄せている自分とは、まったく違う。 「久しぶりだよね、何年ぶりだろ?まさか来てくれるとは思わなかった」 「……ごめん」 「その謝罪って、どの事で謝ってんの?」 「え?」  見上げれば白いシャツとジーパン姿の義兄が見下ろしていて、微笑みながら床に腰を下ろすと胡座をかいた。 「避けてたこと謝ってんの?それとも、急に来たことを謝ってんの?」 「……どっちも」 「そっか。どっちもか」 「意地悪な言い方」 「まあ、あまりにも久しぶりだから、意地悪だったかもね。で、今日は?」 「……結婚するって聞いて。義母さんから会いに行ったらって言われて」 「そうか。それで来たんだ?」  終始笑顔を向けてくる涼義兄さんは、俺から見たら迷いなんて少しも無いように見えた。そんな顔で見られていたら何をしに来たのかも分からなくなる。  この数年で本当に変わったのかもしれない、特別な人と出会ったのかもしれない。 「本当に結婚するんだね……おめでとう」 「ありがとう」  ずしりと重い言葉だった。  本当に嬉しそうで、その顔が凄く、俺にとっては悲しかった。 「チェスじゃん、まだ持ってたんだ?」 「うん」 「久しぶりにやる?」 「……うん」  テーブルの上に広げたチェスボードに、義兄は駒を並べていく。  ルールなんてすっかり忘れてて、でもそれしかなかったから。
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